小さな外交官

 僕が高校を卒業してもう10年が経過した。十年一昔とはいったもので、10年もあれば多くのことが変化する。実家のゴールデンレトリバー3匹は旅立ってしまい、愛犬が生きがいだった母親は一気に老け、チェーンスモーカーだった父親がなぜかタバコを辞めた。僕はといえば大阪から東京に移り住み、戸籍の姓が日本語の名前から李になった。

 僕が卒業した学校は韓国学校である。在日韓国人子弟のために設立された民族学校であるが、全国に4校しかないうえに2校が大阪にある。民族学校といえば日本全国にある朝鮮学校が有名であるが、あちらは北韓国(北朝鮮)の出先機関である朝鮮総連が経営している。見学に行ったときに学校内に初代将軍金日成の絵が掲げられていて、本当にあるのかと感動してしまった。僕が通ったのは大韓民国サイドの学校なので、あちらとはだいぶ事情が違う。

 新祖国建国のための人材を育成する。
 日本の敗戦により解放された祖国に帰り、建国するための人材を育てようという崇高な目的をもち、焼け野原の残る大阪で建国学校は1946年に華々しく開校した。僕の母校である。他の韓国学校や朝鮮学校は、日本生まれで朝鮮語の読み書きがわからない子どもたちが帰国の準備をするために朝鮮語を勉強する国語教習所という、塾のようなものが起源であるが、建国学校は初めから学校として設置された。1949年、朝鮮人学校閉鎖令を免れるために、日本の学校教育法に則った一条校になる。これにより建国学校を卒業すれば日本の学校の卒業資格を得られることになった。東京韓国学校と全国の朝鮮学校は各種学校扱いであるが、大阪にある建国、のちに一条校となった金剛と京都国際は一条校なので、民族学校でありながら日本の学校のひとつでもある。

 「小さな外交官」は僕が建国学校に入学したときのスローガンだった。
 あなたたちは日本語も韓国語もできる。日本のいいところの韓国のいいところも知っている。日韓の架け橋になる人になりなさい。じっさいの外交官がそんなにいい仕事なのかどうかはわからない。年頃の僕たちは、在日なんか日本人と韓国人の悪いところの詰め合わせやないか、と毒づいていた。少なくとも日本からも韓国からも背を向けてふてくされていた僕には響かなかった。
 このスローガンじたいは、建国学校が設立時にその教育対象としていた、日本植民地時代に渡ってきた朝鮮人の子孫である、いわゆるオールドカマーの在日の生徒を念頭に置かれていたのだろうと思う。祖国が建国されて70年、ついでに分断されているいま、我々に求められていたのは祖国建国ではなく、小さな外交官になることだった。

 とはいえ僕らオールドカマーは、僕が卒業した10年前には既に学校内でも少数派だった。少なくとも高校では40人の学年のうち10人いるかいないかである。多数派は22、3人ほどいたニューカマーで、本人も韓国出身もしくは親が韓国出身で日本生まれの二世で、彼らは韓国語ネイティブだった。建国は女子バレーボールの強豪で、バレーボーラーの日本人女子がだいたい6人ほどである。そして僕の学年くらいから少しずつ変化が起きていたのがこの生徒構成だった。折からの韓国ブームは、韓国語を勉強したい、韓国にかかわりたいという女子中学生たちの心を動かし、ついに民族学校の門を叩く日本人生徒がでてくるほどに定着してしまった。僕の学年にも2人ほどはそのような日本人女子生徒がいて、十数年前に彼女らは親に反対されたのを押し切って入学していた。

 彼女たちは韓国への関心はかなり高いので韓国語もぐんぐん上達する。親に言われて入学し韓国語に一抹の関心も示さない在日の生徒がいる一方で、彼女たちの韓国や韓国語に対するモチベーションは目を張るものがあった。彼女たちは日本人で、バレーボールをするわけでもないし宗教絡み※でもないのに、なぜ民族学校に来たのだろう。そんな疑問が入学当初は浮かんだものの、子どもなので同じクラスで過ごしているうちにどうでもよくなる。
※韓国学校には韓国系新宗教信者の日本人子弟も入学してくる。学年に1人はいて誰がその関係者なのか皆知っていた。

 高校生のおおきな関心ごとのひとつが進路だろう。僕の学年くらいから少し様子が変わりだし、学年の半分かそれ以上は韓国の大学を目指すようになっていた。オールドカマー在日や定住志向の強いニューカマーにも大学は韓国に行くことを決めた同級生がいた。「韓国が好き」が動機だった日本人女子の同級生たちも努力の末韓国の名門大学へと進学していった。彼女たちは韓国の大学に進学して韓国に住むために民族学校を上手く活用できた。入学当初からそれを見越していたのかどうかはわからないが、結果的にはそうなった。同級生たちは何人かはSNSでしか近況を知らないが、彼女たちは韓国に住み続けているようだ。

 「小さな外交官」というスローガンが想定していたものとは違ったのかもしれないが、日本人の彼女たちがそのことばにふさわしい存在になっていた。先人たちが建国するぞと意気込んだ祖国が発展し、おそらく当初は誰も予想だにしなかったかたちで韓国が日本に影響を及ぼしてきた。

 日本社会も大きく変わって、もうすでに四世や五世の世代になった在日韓国人への(少なくとも表向きの)差別はなくなった。日本人とおなじ土俵に立って勝負するときに、民族教育だとか民族の誇りというのは、能力や学歴を身に付けるうえで必要なものではないし、もしかすると邪魔にもなり得るのかもしれない。オールドカマー在日たちが民族学校を敬遠しはじめた穴に入ってきたのが、韓国に魅せられた日本人生徒たちだった。

 僕が卒業したこの十年のあいだで民族学校から韓国系インターナショナルスクールというコンセプトに変化した。「小さな外交官」というスローガンも気が付けばなくなっていた。いまや生徒の半分が日本人なのだという。祖国建国の意志に燃えていたとき、誰がこうなることを予想できたのか。建国された祖国は発展し、オールドカマー在日が世代を重ねて祖国との関係が希薄になるなかで、おそらく熟考を重ねて生み出されたスローガンだったのだろう。

 実家にいたときに父親が「建国に行かせたのにお前は韓国語もロクにでけへんのか」と小突いてきたことがある。ニューカマーたちが韓国語で話すなかに日本語で返していたので、僕は韓国語で会話することが著しく苦手なのだ。発音だけは上手い自信はあるが。
 小さな外交官になるまでもなく、玄界灘の向こう側の祖国には触手がまったく動かずにここまできてしまった。僕自身は、この十年でも特に祖国との関わり方は変わっていないどころか、ますます疎遠になってしまった。韓国に魅せられて民族学校にやってきた日本人生徒たちが、小さな外交官として日韓のあいだを行き来してくれるだろう。

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