12.才能は使ってこそ
あなたは本当に無能なのか?
才能は使ってこそ能力なのだと思っている。
生まれ持った才能というのは誰にでもある。
だけど、それは例えば使わずに寝かせているなら磨かれることはない、ただの石っころだ。
けれど、それを使ってみることで磨かれて宝石になるものがあったり、火をつけるものがあったり、物を切るものがあったり、ものを叩き割るものがあったり、重石になるものがあったり、日時計になるものがあったり、いろんな価値をつけていくことができる。
でも、軽石では重石にはならないように、向き不向きというのはある。
向いていることをやらなくては、能力にはならない。
私は、自分の才能がどんなものかがわからなくなっていた。
子供の頃から、算数ができないこと、運動が苦手なこと、人前で話すのが苦手なこと、言語化が苦手なこと、人と同じようにできないこと、団体行動が苦手なこと、など苦手なことを意識させられてきた。
そんな私がやってきたことといえば、
「苦手の克服」
ばかりだった。
人並みになることのために、「苦手の克服」に挑んできた。
具体的には、
算数ができないから公文式に通わされたり、
勉強ができないから塾に通わされたり、
ボール恐怖症の克服のために球技のクラブに入ったり、
音符が読めないから吹奏楽部に入ったり、
声がでないからボイストレーニングに行ってみたり、
そういうことをやっていた。
ひたすら自分の「出来ないこと」ばかりをみてきた。
やれば、それなりにはできるようにはなるけど、人並み以下にしかできない。
でも、不思議なことはあった。
私は自分の心の声の発散のためにブログを毎日書いた。
誰も読んでいないことをいいことに、めちやに書いた。
そうすると、5年も書いていると、読者ができていた。
そして、10年くらい経った時には「すごく響く文章だ」「伝わる文章だ」と褒められることが何度もあった。
幼少期に言語化が遅かったため、ずっと幼児語がぬけなかったり、主語がなかったりで、親や姉から「何言ってるかわからない」と言われ続けていた私だ。
まさか、「伝わる文章」など書けるとはおもっていなかった。
わからないものなのだ。
才能とは自分が、「頼まれてもいないのにやってしまっている」ことにカギがあると思う。
好きとか嫌いとかは洗脳があり、「好きなこと」を聞かれても、素直に言えないどころか、何が好きかもわからなくなっていたりする。
大人になると、それほど拗れている人は拗れている。
私は自分がそうだった。
何が好きかなど、ハッキリいってわからなくなっていた。
ブログをひたすら毎日書いて、自分の心の内をアウトプットしつづけていって、解放されて、今は「ネットが大好物」とか言ったりするが。
かつては「ネットは危ない」とかいう人がいたり「SNS好きな人っているよね〜」とか斜めに言われたり「Twitterとか分からないわー」とか軽く見下げている人の声を聞いていて、人の目を気にして好きなことを口にすることすら出来なかった。
今はSNSもネットも突き抜けてしまったから、それを知らない人から何を言われても全く気にならなくなった。
だって、私の方がネットもSNSも深いわけだから。
「その面白さを知らないなんてお気の毒」
くらいの感じだ。
好き嫌いはマヤカシがあったりする。
だから、「頼まれてもいないのにやってしまっていること」や「得(お金)にもならないのにやってしまっていること」(お金を稼ぐとか増やすのが好きな場合もあるよね)がヒントになる。
それをとことん探求してみることはおすすめだ。
自分を止めずに、やらせてあげること。
細々とでいい、お金もかけなくてできるようなことを、やらせてあげるのだ。
その継続、積み重ねは、能力になっているのだ。
つづく