【詩】腹は減る

人生において大半の時間はじりじりと早く過ぎてくれないかなとやりすごしてあれもやりたいこれもやりたいと思っていたことは大抵忘れてぼんやりとした脳内は霧の湖上で延々ボートを漕いでいるようなまどろみを持って放れず自分が何をやりたかったのかを思い出すことに疲れて二度も三度も寝てしまってだいたいそれらの夢は罪悪感からか悪夢でじっとりした汗で体が冷えてああ寒い寒いと外へ出る。

と辺りはぼんぼりぼんやり暗くて子ども達は公園で今日最後の鬼ごっこをして部活帰りのジャージ姿の中学生カップルは犬と散歩中のおじさんよりも遅いスピードでゆっくりゆっくり歩く「夕方って悲しくなるね」「そうだね」ってそれだけで言葉はいらないね。

彼らにも私にも等しく時間は流れているはずなのにその時間の長さは個人の環境や感情によって左右されるよな。なんて事は当たり前すぎて平坦に聞こえるしまどろっこしくて要はゆらゆら帝国の「時間」という曲に全てが集約されている。

段々と現実の自分が輪郭を帯びてきて「また今日もつまらない自問自答して暇人」と声が聞こえごめんなさいごめんなさい生きててごめんなさいなどと使い古された呪文をつぶやいているそれでも、腹は減る。


かつて他所の家の夕食の匂い漂う夕方の時間帯に家にいるのが耐えられなくて休日でもあえて平日と同じ時間帯に帰るようにしていたあの頃は自分以外の人達のいる環境にアニメ日本昔話のエンディングテーマ「にんげんっていいな」みたいな家庭の姿を想像してホームシックに陥り、ふと独りの自分がまるでマッチ売りの少女のような悲劇ぶって(likeのび太)にでもなっていたのだが歳を重ね、独りだったり二人だったりした時期を経てそれって幻想じゃないかと考え方が変わった。

「ごはんできたよ」と「また明日ね」は温かい言葉の鉄板だと思うのだが、この言葉には色んな表情や背景がある事を知るとそう自分のいる環境もたいして不幸でもないよなと相対化できる。幸せですと言い続ければ幸せになれるよという言霊信者にもなりきれてないけど、腹は減る。


自意識というのはやっかいで、変わりたいと願っているはずなのにいざ変化の場になるとうろたえるものだ。過去が美化されていたり脚色されていることに他人という鏡を通して気づいて自分を支えていた柱がぽっきりと折れてしまったような気分になるけれどそうやって価値観というものは壊して作ってお互いにすり合わせて共存していくものでしょうという理想は高らかであっても現実には生かされない。女は上書き保存だとよく言うけれどすべてにおいてそうではなくて自分のために料理するのって虚しいなってあえて餌にして自分に暴力のように流し込む、意識が濁るまで食べ物を与え続ける。

食べているのに腹は減る。

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