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赤木青緑「たたみかけるように雨が降っている」感想

「文芸くらはい」はシロート読者・春Qが文芸作品を読んでアレコレと感想を書く企画です。感想を書いていい作品は絶賛募集中。詳細はこちら


◆春Qの近況
そのうち土曜更新に変わるかもしれません。いや、職場によっては日曜でもいいかな?(ちゃんと内定とってから考えなさいッ👹⚡)

◇「たたみかけるように雨が降っている」概要

 季節は冬。主体は激しい雨を感じている。
 冷たい雨は人肌を恋しくさせる。ずぶ濡れの視界に移る景色は性衝動を掻き立てる。雨と土、山と海は交わり合い、明日は来る。雨が降り続く限り世界は続く。あるいは世界が滅んだ後も雨は降り続く。


 公開が今年の11月11日というフレッシュな作品です。感想を書く都合上、一行アキで区分けして各まとまりに①~⑱までの番号を振りました。共有のために作った資料が以下です。余白が少なくてすみません。

 何か問題があったら消します🥷🍃

 ところで皆さん、てご存じですか? 詩を大きなまとまりで分けたもののことです。国語の授業でならった方もいますかね。

 詩は自由なものだけど対句や韻律でなんとなーく気持ちよくなれるカタマリができていることがあります。今回の詩はちょっと長めですし、そういうカタマリがあれば積極的にときほぐしていきたいところなんだけど……一読したところ、わかりやすい連はなさそうだった!

 J-POPでいうサビみたいに用いられる言い回しはあるんですけどね。

雨はたたみかけるように降る

赤木青緑「たたみかけるように雨が降っている」

 ただこれも、⑤「たたみかけるように雨が降っている」、⑨「たたみかけるように雨が降ってる」⑮「雨は止まない、たたみかけてくる」……と、表記が統一されていない。こういった言い換えの多用は散文的かなと思いました。散文的な詩だって世の中いくらでもあるんですけどね! 春Qは詩っていうより小説になりかけている詩なのかと思いました。

 適切な例かはわかりませんが、「小説ではない」詩として山本沖子「駅へ行く道」を挙げます。

駅へ行く一本道が私は大好きだ

春はアカシアの花がこぼれる
秋になると白い風が吹く

明るい夜に
私は毎夜この道を歩いてゆく

写生したい小さい女の子の家の二階から
気の狂った人が石を投げます

いく日も雪が降って
夜は方角が分からない
駅へ行く道は私の家から一本道

駅へ行く一本道が私は大好きだ

山本沖子「駅へ行く道」

 ずっと「駅へ行く一本道」の話をしている。言い換えにあたる箇所も「駅へ行く道は私の家から一本道」だけで、これは読者に道を指し示すためだと思います。だってこの一行がなかったら「私の家」から続く道だとわからないものね。あたしが家から離れて遠く(駅)へ行くには、また家へ帰ってくるには絶対にこの道を通るんだッという強い意志を感じます。

 翻って、「たたみかけるように雨が降っている」に多用される言い換えに、それだけの意味を読み取ることは春Qには難しかった。読み取れたとして、「降っている」は屋内から客観的に眺めていて、「降ってくる」は今実際に外で雨に打たれているのかな?とかそんな感じで、確信が持てない。

 でもこれって詩歌あるあるだと思います。重要な意味をこめた一文でも、読者は「?」と首をかしげるだけのことがよくある。

 春Qの場合は短歌ですが、せっかくなので恥ずかしい実体験をさらすことにしましょう。何年か前にこんな短歌を歌会に出しました。

お母さんになってくださいウェンディ人魚と妖精から嫌われて

寺山恵(春Q)

 福音館『ピーターパンとウェンディ』読了後に詠んだ歌です。というのも『ピーターパン』作中でウェンディって結構きつい扱いを受けるんですね。彼女自身まだ子どもなのにピーターパンや孤児たち、大人であるはずの海賊たちから「お母さん」になることを要求される。ピーターパンの妻役を演じるせいで、人魚や妖精からも嫌われてしまう。

 といったことを鼻息荒く詠ったつもりだったんだけど、『ピーターパンとウェンディ』を読んだことない方には通じないネタなのだ! 歌会の参加者はみんな困惑しておられた。

 何が言いたいかというと。

 詩歌は文芸の中でも、経緯を論理だって説明するのが難しい分野なんだと思います。言っちゃうと「駅へ行く道」だって余人に理解できる内容じゃないし。しかし理屈抜きになんか言ってる意味がわかる(ことがある)のよ。まったく新しい未知の文字列を、まるで自分の気持ちを言い当てられたかのように読めてしまう。それが詩の神がかった力なんだと思います。

 と、大きな枠組みの話はいったんここまでにして、細部に入っていきましょう。春Qは本作で好きな箇所が2つあります。

辿って行けば
山と海が動き出す

赤木青緑「たたみかけるように雨が降っている」

 資料でいうと①の箇所です。「山と海とが動き出す」は、いかにも大きなイメージで、読んでいて気持ちいいな~と思いました。同じ理由で⑬の「今、だれかが 必ず 泣いている/だれひとり泣いていないときはない」も好きですね。スケールが大きすぎ、まったく現実的じゃないのに言わんとしていることがわかる。つまり詩ってことです。

 だから逆に⑯の「動き出した山と海はむつみあい深深とお辞儀した」はなぜこんな勿体ない書き方をするのかわかりませんでした。自然を擬人化したことで壮大な世界が小さくまとまってしまったように感じるからです。

◇いいよ、おかしくなって、いいよ

 今時期の雨といったら時雨ですので「凛として時雨」のデビュー曲をくっつけておきます。

 概要に書いたとおり、春Qはこの詩は性衝動についてうたった作品だと考えています。具体的には③の「独り身は堪える」から人間的なエロ要素が入ってくる。

 その後④で寒さに起因する人肌恋しさをうたい、⑩で雨という自然現象が性的にとらえられ、⑭で性の営みを生命誕生に至るものとして肯定し、⑮で大海に至る。

 つまり全体としては、人間の性衝動を大きな自然なサイクルの一部として肯定しようとしているのだ、と解釈しました。そのうえで主体は我が身のままならなさを泣きながら訴えている。

 個人的に、このエロ要素で良い箇所は④ラスト3行だと思います。

ぎこちないステップがあなたの体に触れ
蒸気みたく愛が
顔にかかる

赤木青緑「たたみかけるように雨が降っている」

 同じ④でも直前の「雨はくうきをひんやりさせ、生き物の動きを冷やす/緩慢になった生き物はスローモーションで踊る」は説明的すぎるし、⑩の「先走った雲」「不埒な液体」は表現として紋切り型でチープに感じます。

 その点、引用部は素敵です。「ぎこちないステップがあなたの体に触れ/蒸気みたく愛が/顔にかかる」。「あなた」への思慕が伝わってきますし、「蒸気みたく愛が/顔にかかる」という表現は絶妙に品がよく、何よりも耽美です。

 ……春Qは赤木作品をあれこれと読み、感想を書いたことがあります。だからといって差し出口を許される立場ではありませんが「文芸くらはい」に4度も参加してくださったご縁があります。これを読んでいる方の意見を仰ぐためにも、ここに書き残しておきます。

 テーマは「性衝動」一本に絞ったほうがいいと思う。

 気持ち悪いことを書くようですが、真剣にそう思います。「たたみかけるように雨が降っている」には複数のテーマが混在しています。でも春Qがこの詩を読んで伝わってきたのは、主体がいかに性的に飢え渇いているかということでした。

 たとえば雨と土が交わっているように見える。命が生まれては消える営みに思いを馳せる。何も見えない暗闇で性衝動だけが確かで、地球を回しているように感じる。この詩はそういった切実な飢え渇きをうたった作品だと思います。

 もしこの読み方が正しいのだとしたら、「明日」や「世界の終わり」といった理屈より先に、主体の肉体的感覚に目を向けたほうがいいんじゃないでしょうか。

しめっている
湿り気がそらへくもへ固まり 雨を降らす
循環は廻り巡り
頭へ雨を降らす
雨足は伸び続け、こころに到達し、濡らし、浸透し、栄養となる
先走った雲から、不埒な液体が滴り落ちる

赤木青緑「たたみかけるように雨が降っている」

 引用箇所は⑩ですが「雨が降っている」なら、もっとずぶぬれになったほうがいいと思う。この主体は、雨に打たれた誰かを安全圏から眺めているわけじゃないのでしょう? 春Qの好みの問題かもしれませんが、全体的に説明が勝ちすぎているように感じました。せっかく詩なんですから、腹に溜めた言葉を研ぎ澄まし、滅茶苦茶にやったほうが楽しいと思います!

 ……まあ、春Qに読む力が不足しているだけなんですけれども。

 詩には、理屈で書かれたものも、散文的なものも色々とあります。しかし、この作品に関してはもっと自由になれる書き方があるように思いました。しかしながら異論は大いに認めます!

 春Qは以上のことを天に唾するような傲慢さで書きました。詩は詩である時点で神から絶対的に守られているからです。そうです。詩にあっては誰でも怖いもの知らずになっていいと思う。これを読んでいる皆さんも大胆に詩を書き、読み、論じ合おうではありませんか✏️✨


次回の更新は11/29の予定です。
見出し画像デザイン:MEME


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