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BFC5落選展感想40~42

BFC5落選展の感想です。リストはkamiushiさんによるまとめ「BFC5落選展」をお借りしました。

LIST40 「帰宅」ときのき

 家にいてさえ帰りたい。明日も仕事だからだろうか。

 そんなことはないでしょう。少なくとも私は仕事を辞めて家にいても、家族に白い目で見られていてもなおどこかに帰りたい。

 きっと現実にある家と、本当に帰りたい場所が違うんでしょうね。

 そして「逃げたい」と思うほどストレスが明確ではなく、今抱えているモヤモヤのすべてを永遠に延期していたいな・・・くらいな気持ちから、「帰りたい」と思っている。

 私の「帰りたい」はちょっと(かなり?)怠惰なアレですが、本作の主人公が抱える「帰りたい」はもっと切実です。写真を肌身離さず持ち歩くほど愛している家族のもとに帰れない。私は読んでいて胸が痛みました。いつになったら私たちはこの帰りたさから解放されるのでしょうか。

◇「帰宅」あらすじ

 「彼女」(わたし)は介護施設に入居しているが、認知機能が低下しているため、自分のおかれている状況をうまく把握することができない。施設の前にある青い外壁の家を自分の家のように感じるが、そこにいるはずの人影は見えなかった。

 子供たちが待っているから、と施設職員に何度も「帰りたい」と訴えるが、そのたびに今日は宿泊日だと説明される。説明されれば安心するのだが、記憶障害と不安のためにまたすぐ尋ねに行ってしまう。

 娘夫婦と孫との関係は良好だが、彼女の記憶は現実と食い違っている。帰りたいと言っている家は、ずっと前に処分されてしまっている。先週の誕生日には一家が訪問してお祝いをした。彼女もその時は笑顔だったが、一家が去るとひどく疲れた様子を見せていた。

 介護には負の側面もある。夜勤の職員は、男性のショートステイ利用者に「こっちにこないか」と暗闇へ誘われた。「嫌だ~」「気持ち悪い」と笑って噂しあう職員たち。その隙に、彼女は施設の外へ出ていく。

 職員用の勝手口を出て行き、彼女は家を目指して歩き続ける。歩き疲れたころ、周囲はすっかり暗くなっている。施設では職員たちがパニックになって探し回っていた。

 彼女は青い家を見ている。その時、窓に人影が現れ、彼女は手を振る。人影も振り返してくれる。彼女は帰るべき家を見つけたのだ。


 あらすじにうまく反映できませんでしたが、話運びが非常にスムーズでした。まず冒頭が「わたし」の一人称から始まり、三人称の「彼女」にスッと置き換わる。彼女に当たっていた焦点は、次の展開とともにごく自然と施設職員へ移動しています。

 読者は透明な存在として、登場人物の動向を追います。一人の職員の体験が噂話になり、その背後を彼女がそっと歩いていく。このあたりの文章が、読んでいて心地よかったです。

 嫌だ~、気持ち悪い。ねえ。嫌悪感ははっきりしているがはしゃいだような声はまるで喜んでいるかのよう。昔はいい男だったんだろうね。名残はある。
 昼寝時のフロアに響くけたたましい笑い声。背後のちいさな気配に彼らは気づかない。

「帰宅」ときのき

 また、物語が一行アキで進行していくので全体の印象が軽やかに仕上がっています。落ち着いた文体で、明るい場面と暗い場面をバランスよく配置しているので飽きないし、読みやすかった。

 どういうことかと言うと、この話はまず夕方に青い家を眺める場面から始まります。続いて室内での日常的な場面、七五三とお誕生日の明るい回想を挟んで、夜勤での場面が描かれる。ひとつひとつ色や形の違うピースを上手に物語としてつないでいますね。

 仄暗い、不思議な雰囲気を持つ作品ですが、すべての場面を夕暮れの中で進行させていたら、この仄暗さを強調できなかったと思います。

 会話も肩肘張ってなくてよかった。

今日は15日ですからね。お泊りですよ。「それ困るんだけど。家の用事があるし、わたしがいないと仕事が回らないんだけど。このことを娘は知っていますか?」ご存じですよ。娘さんもゆっくりしてきてねと仰ってましたよ。「本当ですか?じゃあ家に電話させてください。娘に確認します」娘さんは今、お仕事中ですから繋がらないと思いますよ。「そうなの?」そうなのですよ、わかったか?「ありがとう、ようやく安心した」彼女は微笑みを浮かべ席に戻り、五分も経たずにまたメモを握り締めやってくる。

「帰宅」ときのき

 スッと挿入される「そうなのですよ、わかったか?」に諧謔を感じました。怖いようだけど、職員も人間だから何度も聞かれると疲れてしまう。

 ・・・褒めすぎても嘘っぽくなるので、気になった点も書きますね。興味なかったら次の項目にGOしてください。

 この「彼女」は、施設に入居しているのでしょうか。職員の説明をそのとおり受け取ると単に宿泊ですが、誕生日に家族が訪問した点を考えると、入居しているように思います。物語的には入居しているほうが納得いくし、職員が不安感を緩和させるためにあえて嘘をついているようにも感じますが、どっちなのでしょう・・・? でもそのへんを説明するとなると、家族の状況も書かないといけなくなりそうで、字数的に悩ましい・・・。

◇いつかは帰りたいところに帰れるのか

 この話において死が救済であるかどうかは、いったん置いておきましょう。ややこしくなるので。

 でも、帰りたいじゃないですか。彼女が帰りたいのは、きっと写真の中の家だと思います。そこに帰れたら可愛い孫もいるしもう疲れたり不安になったりせずに済むんです。

 家に帰りたい彼女は、最後には歩き疲れてしまってその場にへたりこんでしまいました。歩いても歩いても帰れない。高齢者の徘徊はする側もされる側もつらいと思います。(稀に本人が楽しんでいる場合もあるが)

 誰かが見つけて施設へ送り届けてくれるといいな、と思うのですが、その場合、彼女は「帰る」ではなく「連れ戻される」ことになってしまう。

 しかし彼女はラストシーンで、青い家を見つけました。

 彼女は青い家を見ている。窓に人影が現れる。彼女が何気なく手を振ると、人影も手を振り返してくれる。帰るべき家を彼女は見つける。

「帰宅」ときのき

 そこでさえ「帰るべき家を彼女は見つける」なんです。「帰るべき家に彼女は帰る」ではなくて。

 この、窓に現れた人影も、自分の影がそう見えただけなんじゃないかと思ってしまう・・・。ロマンチックに読むなら、旦那さんの影なのですが。(夫の描写はなされていないが、噂話の中で手を差し出す男性利用者は、この世界に性愛があることを示唆していると思う)

 とても残念なことだけど、帰りたいところに帰れる日なんて来ないんです。彼女にとっても。私たちにとっても。

 でも・・・でも~~~。

 私は思うんですが、「帰るべき家を彼女は見つける」。たとえそれが見間違いだったとしても、本当はその実感だけで十分なんじゃないでしょうか。自分には帰るべき場所があると、彼女は明確に理解している。そこには彼女の家がちゃんと存在しているんです。きっと。

LIST41 「あんたには分かんない、から、ん?、まで」げんなり

 初めてのメタフィクションは、たしか「くまのプーさん」でした。木の枝に引っかかった風船がとれなくて、プーとピグレットが困っているとき、ナレーターが絵本を傾けてくれるんですね。すると木の枝が近くなって、風船を取ることができた、と。

 小説は「ソフィーの世界」だったかなあ。主人公のソフィーが、自分は本の登場人物だってことに気づいてしまうんですね。子供心に(どうなっちゃうんだー!?)と思って読みました。オチはあんまりだった・・・。

 ちょっと方向性は違うけど、主人公が自分の書いた物語の中に入ってしまう名作といえば、岡田淳の「扉のむこうの物語」です。これは文句なしにおもしろい。

 古い作品ばっかりだ!メタフィクションのオススメがあったらぜひコメントしてください!

 ・・・限られた経験からものを言いますが、メタフィクションの良さは、読者の見る目を変えられる点だと思うんですよ。それが上手く働かないと、「え、なに、結局そういう話なわけ?」って白けてしまう。この作品はその辺りをうまく調整しているので良かったです。

◇「あんたには分かんない、から、ん?、まで」あらすじ

「僕」は、朝からカフェにこもって書き物をしている。今夜が〆切だというのに、なかなか良いアイディアが浮かばない。混雑した店内で甘いものを食べながら、隣席にいる男女の言い争いを聞いていた。

 どうやら、相談もなく仕事を辞めてしまった男を、女が怒っている様子だ。女は妊娠しているかもしれないというのに、男は動揺するそぶりもみせない。僕は、こいつ最悪だな、と思った。

 その時、男女が急に僕を非難し始める。聞き耳を立てていたことがバレたのだ。男は怒って立ち上がるが、僕は余裕たっぷりに笑っている。「ようこそ僕の作品世界へ」という僕に、女(をんな)が「私たちが?」と慟哭した。「ん?」という言葉のあと、世界は暗転する。


 言葉の使い方が興味深いですね。「カフェこめだ」、「くりとお芋のロールケーキ!」は、元ネタの「コメダコーヒー」に配慮して名前を変えているのかな。最初に出てきた「シロノワール」だけで通じそうだけど、カフェに興味がないひとには確かに通じないかも。

 あと韻律もかなり意識している。

垂乳根の。
ちはやぶる。
次何食べよか考える。
て言うか、
隣の二人連れ、喧嘩中?

「あんたには分かんない、から、ん?、まで」げんなり

 書き物をする主人公が男女の口喧嘩に聞き耳を立てている、という状況設定で、韻律(書かれた文字の聞こえ方)に気を配るのは面白いですね。

 ラストの「をんなが慟哭」もそうです。

 僕の書く世界であれば「女」を「をんな」とすることも可能だが、聞こえ方には特に変化がないという・・・。

◇「ん?」で終わってない

 そうなんです。この作品は「あんたには分かんない、から」始まってはいるけど、「ん?、まで」で終わってはいない。

マジムカつく、と女が泣いて、
ミリも許せねえと男が立ち上がる。
むしゃむしゃ。
面倒事はいつでも向こうからやってくる。
もはや字数に余裕なし。

やだ、こいつ笑ってる。
夢でも見てんのか、ああン?
ようこそ僕の作品世界へ。

私たちが?
をんなが慟哭。

ん?

        暗転。

「あんたには分かんない、から、ん?、まで」げんなり

「ん?」の後に「暗転。」が来ます。この「ん?」と言っているのは語り手だと思うんですね。意図しないところで暗転させられてしまった、と。

 そのあたりが肝なのかなあと思いました。

 あと「もはや字数に余裕なし。」とあるけれど、これもBFCの原稿のことではないのですね。規定枚数に余裕があるから。つまり「僕」は初めからメタフィクションの主人公だったのだ、ということになります。

 でも、難しい。

 そもそも「あんたには分かんない、から、ん?、まで」ってタイトルを設定したのは誰なの?ってことになってしまうのです。無理して俯瞰しようとすると、小説の中で小説を書く小説、の中でさらに小説を書く・・・みたいなループに陥ってしまいそう。

 文章のノリからしてたぶん爆発オチみたいなものなので、「僕」は暗転後もまた別の作品で元気に活動していると思うんだけどね!

LIST42 「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 エロとホラーは、読者の肉体に直接訴えかけることができる! というわけで、私はエロ小説が好きです。ホラーは肉体に訴えかけられるどころか、怖すぎて生活に支障が出るので控えている・・・。

 適切な規制を受けたうえで取り扱われるべきものですし、道義に反したことを売りにしている作品も多いので安易に語るべき話題ではないですが、私はなんでも読みます。良いと思うかは別として。

 書く側としては・・・むっずかしいんだ・・・エロって・・・

まず男性向けと女性向けがあるんですよ。エロ小説はよりエロくするために比喩表現を大量に用いるのですね。その際、男性向けでは「水で薄めたボンドみたいなニオイ」と表現されるものが女性向けでは「まるで焼きたてのチーズケーキのように芳醇な香り」になったりする。もはや別物なんだ。いや私の品のない御託はマジでどうでもいいのです。

 本作はエロ小説ではありません。

 しかし、繊細なストーリーをつづると同時に、主人公が性行為に及んでいる、そのさまを描いている点が、とてもすごいと思った。一歩間違えれば下品になってしまいそうなのに、比喩を駆使した表現はあくまで美しく、残酷でさえあります。

◇「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」あらすじ

「わたし」(亜沙美)は、亜里沙ちゃんのことを考える。亜里沙ちゃんは筋肉質ですらりとした体の持ち主だ。色白で冷え性、腰回りに肉のついているわたしとは全く違う。

 わたしは婚活の結果、さほど好きではない男性と結ばれた。友達の聡子はこの決断を少々不安に感じるようだったが「亜沙美がしあわせならなんでもいいよ」と言う。

 気持ちはついていかないが、自分で自分を鼓舞するものだ、とわたしは考えている。関係を維持するために性行為も行うが、ずっと亜里沙ちゃんのことを想っていた。切り分けた桃を冷凍するようにして、わたしは自分の想いを胸の奥に秘めている。


 本文にはイメージを喚起する場面がたくさんあるのだが、春Qがあらすじとして汲み取るとこんな感じになってしまう。すまない。

 ともかく官能性のギアの入れ方が凄まじいので見てほしい。

 冒頭がこれ。

 角切りの黄桃と一口大のバナナとを冷凍庫からとりだして、カランカランとフードプロセッサーに入れる。牛乳とヨーグルト、はちみつを垂らしてスイッチオン。最初はすこしぎこちない動きだけど、やがてなめらかになる。とろとろの桃のスムージーを太いストローで吸い上げる。

「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

  そこから続く亜里沙ちゃんの描写がこれ。

正しい筋肉がきちんとついていて、野生の躍動を思わせる。崖に生えた草を食む、俊敏な鹿のほっそりとした脚、の、膝の曲がる角度までが完璧で、あのこの下の毛が濃かったら絶対に魅力的だなあ、なんてことを自然と考えた。VIOの脱毛なんかと無縁でいてくれたらどんなにいいだろう。

「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 わたしちゃんが、ヨガをしている時のことを思い出している。

 亜里沙ちゃんが猫のポーズで背中をアーチにする。肩甲骨の羽の間を存分に広げ、背骨のいっこいっこを順番に立てていく。ふー。ふー。こんな姿の猫は怒っているに決まってる。きっとしっぽを太くしている。わたしにはできない芸当で、大変にうらやましい。

「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 結末部。

 完熟の白桃の、あなたのすきなところ、にキッチンばさみを突き立てて十字に傷をつける。開いた刃で果肉の奥の種を挟み、ねじりまわして引きずり出す。種はシンクにぼろんと落とし、その刃で産毛をこそげたら皮ごとぶつ切り。いい香りで見るも無惨なそれをジップロックにいれたら果汁ごと平らかに、冷凍庫で眠れ。

「フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 冒頭と結末がともに料理描写ですが、通して読むと、ただ単に料理をしているだけとはもはや思えない。驚きました。

◇亜里沙ちゃんはいったいどうなったんだ。

 この超絶技巧が作品世界を支えているとしても・・・。亜里沙ちゃんに関する説明が少なすぎるように感じたのは私だけでしょうか。

 嫌な役を押し付けてこなした、それだけだよ。
 そうまでしてって思う? 勝手だな。
 子育てがイージーモードだからって、今おなかにふたりめがいるんだって。ままならないわたしを、わたしの頭のなかでだけでもやってみてよ。

フローズンピーチスムージーのおいしいつくりかた教えて」こい瀬伊音

 このあたりが私にはよくわからなかった。「わたし」が、婚活で得た夫に「嫌な役を押し付けて」子づくりを「こなした」という意味か。

 そして、「そうまでしてって思う? 勝手だな」って話しかけている相手は、心の中の亜里沙ちゃん? 

「ままならないわたしを、わたしの頭のなかでだけでもやってみてよ。」はすごい熱量のこもった言葉だが、これってどういうことなんだ。

 引用箇所を無理して解釈すると、亜里沙ちゃんは良い相手と結婚して今では二人目を授かった、わたしはそれを許せない、ということになるのだが、表現がふわっとしていて確信が持てない。

 それに全体を通して「わたし」は亜里沙ちゃんの肉体にばかり執着しているように感じる。しかし単に体目当ての相手に対してここまで強い想いを抱けるものだろうか。うーん。

 で、春Qは思ったのだが、この小説は一人称なのです。

 だから、「わたし」は亜里沙ちゃんのことを正視できる精神状態にないのかもしれないと思った。心の中で肉体を思い描いたり、恨み言を言うことはできるけど、核心に触れられないのかなあと。

 そして、亜里沙ちゃんと「わたし」(亜沙美)の二人は、とても名前が似ている。文章のはしばしから、「わたし」が亜里沙ちゃんと同化したい気持ちも伝わってきた。からだとからだで溶け合いたいから、逆に亜里沙ちゃんの心に触れられないのかも? 違うかなあ・・・。


次回更新は3月29日の予定です。


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