帰宅

 

 昼をまわり陽が落ち始め、駐車場にかかる影も角度が変わり、べったりと油溜まりのように延び広がっていく。
 彼女は窓へ近寄り、ガラスにぺたりと手を添え、じっと向かいの青い外壁の家を見つめる。
 あそこわたしのいえだと思うんだけどなー。
 施設の駐車場に向かい合う形で部屋の窓が並んでいて、窓の内側の障子戸は閉まっていて屋内は見えない。
 人影はない。誰かいないはずがないのに。
 夕方が近くなり陰が濃さを増し、車はその下に沈む。
 かえりたいなー。かえれるんだけどなぁ。すぐそこなのに。

 フロアのテーブルで彼女は友達と話し込んでいる。誕生日が近いこと、娘と孫のこと、彼らに会えず寂しいこと、すぐそこに家があるので帰ろうと思えばすぐに帰れること、家に帰れば子供たちがいること、だから今すぐ帰りたいこと、なのに何故かここから出してもらえないこと。「あんた、帰りたいんだったら職員さんに話してごらん」と友達はいう。「送るのを忘れているのかもしれないよ」
 彼女は首をかしげる。そうなのかなあ。
「そうだよ。こういうとこはいい加減なんだから。ぼんやりしてると置いてかれるよ」友達は悪気なくせっせと彼女の不安をあおる。そういえば、昼までフロアにいた顔見知りがいつの間にかいなくなっている気がする。「わたしは仕事があるからまだここにいなきゃいけない」といって、友達はテーブルに積まれたタオルをてきぱきと畳んでいく。友達の手際の良さにはいつもながら感心する。彼女はトイレに立ち、席に戻ってくると友だちの姿はなくなっていて、畳みかけのタオルの山が残されている。友達もトイレに行ったのかな、と彼女は考える。そして手伝うつもりでタオルに手を伸ばす。がさりと何かこすれる感触がして、上着のポケットに入った紙片に気がつく。
 自動車の排気音がする。

 ちらしを四等分したメモ紙に“15日は泊まります”“16日に帰ります”と黒マジックで書かれている。メモを持って彼女は幾度もやってくる。「これの意味が分からないんだけど、今日は帰れないってこと?」今日は15日ですからね。お泊りですよ。「それ困るんだけど。家の用事があるし、わたしがいないと仕事が回らないんだけど。このことを娘は知っていますか?」ご存じですよ。娘さんもゆっくりしてきてねと仰ってましたよ。「本当ですか?じゃあ家に電話させてください。娘に確認します」娘さんは今、お仕事中ですから繋がらないと思いますよ。「そうなの?」そうなのですよ、わかったか?「ありがとう、ようやく安心した」彼女は微笑みを浮かべ席に戻り、五分も経たずにまたメモを握り締めやってくる。

 彼女が肌身離さず持ち歩いている写真は三葉で、七五三らしき正装で娘夫婦と孫と一戸建ての前で写っているもの、公園でビニールシートをひろげてランチボックスを囲んでいるもの、撮影者を見上げる男の子を視線を見返すように俯瞰から撮ったもの。かわいいでしょう。これが家なの。家はずっと昔に処分してなくなっている、と職員はいわない。孫と娘夫婦が先週訪ねてきて彼女の誕生日を一緒に祝ったことを職員は思い出す。娘たちを満面の笑みで送り出した後、突然疲れたように表情がそげおちた彼女の横顔についても。

 恐いこわいと職員たちが騒ぐ。昨夜の話だ。男性のショートステイ利用者が居室の暗闇の中で目を光らせていて、夜勤者が声をかけると、猫撫で声で「こっちにこないか」と手を差し出してきた。室内は換気扇の音とねっとりした闇。
 沈黙する夜勤者は手を取ることはなく、男性は力なく手を下ろした。
 嫌だ~、気持ち悪い。ねえ。嫌悪感ははっきりしているがはしゃいだような声はまるで喜んでいるかのよう。昔はいい男だったんだろうね。名残はある。
 昼寝時のフロアに響くけたたましい笑い声。背後のちいさな気配に彼らは気づかない。

 彼女は足音のないままに職員用の勝手口から出て行く。旧国道まで同じ速度で歩き、内履きのまま横断歩道を渡って道なりに歩き続ける。彼女は帰らなければならない。橋のゆるやかな坂をのぼり、対岸まで来てゆっくりと下り、彼女の自宅方向へ向かうバスの停留所を通り過ぎ、気づかない内に限界を迎えて足がそれ以上前に出なくなり、「疲れたわ。どうしましょ」と呟いてその場にへたり込む。周囲はすっかり暗くなっている。施設では職員たちがパニックになっている。まだ家には着かない。

 彼女は青い家を見ている。窓に人影が現れる。彼女が何気なく手を振ると、人影も手を振り返してくれる。帰るべき家を彼女は見つける。

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