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いいね欄と身体

じぶんはもうX/旧twitterのアクティブユーザーとはいえない立場だが、それにしても先刻のいいね欄非表示化の施策には、ものすごくきついものをかんじた。可視化されたいいね欄には、直接のツイートやリプライやリツイートにはない、もっとよわくて二次的ともいえるコミュニケーションの美徳を個人的にはかんじていたからだ。

使用方針はとうぜんひとによりけりだっただろうけれども、じぶんのばあいはじぶんのも他人のも、いいね欄は基本的に「みられうる」ことを前提に運用・活用していた(リアクションが知られたくないなら鍵アカやブックマークをつかえばいいだけのはなしだ)。情報との遭遇経路をふやす意味では端的にキュレーションの意味合いがつよいが、それだけでなくいいね欄は、コミュニケーションの「微妙」をしめすうえでなにより重宝した。消極的な意思表示、コード化された私信、ツイートの注釈的意味合い、ささやかな連帯の表明などの、よわい自己開示――もっといえば、「自己のよわさの開示」までをも可能にする副次的機能をもっていて、それがテキストベースのコミュニケーションにあきらかな奥行きをもたらしていた。

それでふとおもいだしたのが、哲学者ロラン・バルトののこした書物群だ。バルトの記述はおおく断章形式による。とくに後期は構造主義の体系からはなれ、『恋愛のディスクール・断章』や『彼自身によるロラン・バルト』、そうして遺作『明るい部屋』の「極私的な」写真論にいたるまで、たえず「わたし」を分散・複数化させるような思考と断片的記述をくりかえしていた。移り気で疲れやすいバルトの記述はそうしてちいさく、こまかくなることをいつも志向していて、同時にその集積から、最終的にはバルトじしんの「バルトじしんでしかなさ」のようなものが、たしかにうかびあがってくる――そういう体感がバルトの書くテクストにはかならずあった。

なかでも『彼自身』は、バルトじしんが「彼」という三人称で自己をさしつつ、「わたし」について書いた諸断片が雑駁にならべられただけのふしぎな断章集で、ここからいま「私は好きだ、好きではない」という有名な小題のひとつを引用してみる。題のとおりじぶんの好きなものとそうではないものをざっくばらんに列挙しただけの、まるで買い物メモみたいな断章なのだが、これがさっき述べたような、可視化された「いいね欄」にちかい感触をもっているようにおもうのだ。

私は好きだ、好きではない J'aime, je n'aime pas
《私の好きなもの》、サラダ、肉桂[キャネル]、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干し草の匂い(どこかの「鼻〔調香師〕」がそんな香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立ち場、グレン・グールド、冷やしすぎのビール、平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻き、ヘンデル、適度の散歩、梨、白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃、桜んぼ、絵具、腕時計、万年筆、ペン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、コーヒー、ポロック、トウンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェルヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、列車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出現するときにたべたセルラーノなど。

(『彼自身によるロラン・バルト』P.178-179)

いまみるとほぼ「好きな総菜発表ドラゴン」だが、つぶさに読んでいけば、食べ物にはじまり、五感を総動員しつつ自由連想的に列挙されていくさまざまなもののうちに、バルトのもつ嗜好がたしかにうかびあがってくるのがわかる。かるいもの。ちいさいもの。手のなかにおさまるもの。香りのつよいもの。みずみずしいもの。ざくざくしているもの。はずむようなもの。素朴な質感や感触だけをたのしむようなもの。複雑すぎないもの。弾性が自己身体にはねかえってくるようなもの。その意味でエロティックなもの。にぶい光をはなつもの。シックなもの。ダンディなもの。道具的なもの。石のような哲学性をもつもの。断章的なもの。自身によく似ているもの。――それで、この列挙されたものじたいが間接的にバルトじしんなのだ、という理解がおよびはじめる。とうぜんそれは、断章形式により記述されたこの本ぜんたいの構造ともかかわってくるだろう。つまりこの本そのものが、裁断されたちいさなバルトたちの集積であり、「かれじしん」なのだと。

並置される「好きではないもの」のほうも引いておく。こちらは以上とはちょうど真逆のもの――どぎついもの、かんだかいもの、ヒステリックなもの、なまなましいもの、ポルノグラフィックなもの、蝟集しているもの、荘厳で鈍重なもの、集団的なもの、同一化をしいるもの、全体主義的なもの――が列挙されている。これらからもやはり、このリストを編成した「わたし」=バルトじしんの嗜好がよくみえてくる。

《私の好きではないもの》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラウザン、ホアン・ミロ、同義語反復、アニメーション映画、アルチュール・ルビンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル、ルネッサンス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。

(P.179)

そうしてこれら列挙のあと、この断章の最後には以下の文章が付される――ここでいわれる「重要性のなさ」こそが、なにより重要だ。

《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。そんなものは、見るからに、無意味である。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集めたこの無政府的な泡立ち、この気まぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち個人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまの享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。
(一匹の蠅が私に腹を立てさせる、私はそれを殺す。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蠅を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。)

(P.179-180)

そう、可視化されたいいね欄とはつまり、一種の「身体」だったのではないか。ツイートやリツイートによりなされる、オープンで能動的な自己の表出にたいし、より消極的な身ぶりや目くばせや、「半分だけ無意識に浸かっている」アクションやリアクションの表出を可能にしていたのがいいね欄で、だからこそユーザーは、ときには通常のツイート以上に、相手方のひととなりをそこからうかがい知ることができた。アクションをする/しないの二項対立のあいだにある、バルトごのみの形容でいえば「中性的」な領域が、このいいね欄だったのだとおもう。

そうして上摘した箇所にもあるように、それが倫理の側面にも架橋していたのではないだろうか。いらだたしげな主張をふりまく輩のいいね欄がポルノ画像にまみれているとき、さしあたりひとは奮起させた憤慨を苦笑でおさめるだろう。逆にはじめはその意見に共感をおぼえたひとでも、その身ぶりやふるまいからじぶんとの決定的な距離を痛感させられ、そっと身をひきはがすばあいもままある。いずれにしても生じているのは、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》――という、ただそれだけの了解にすぎない。

そうしてその身体の次元は、もちろん寵愛や欲望の対象ともなる。『恋愛のディスクール・断章』のなかの「知りがたい」という小題において、バルトは《誰かのことを知るというのは、要するに、その人の欲望を知ることにほかならないのではないか》(P.204)と述べたうえで、こんなことを書きつけている。

あるいはまた、あの人を規定しようとする(「あの人は何者か」)かわりに、わたしは自分自身へと向うだろう。「あなたのことを知りたいと望んでいるわたしは、いったい何を望んでいるのか。」もし、あなたのことをひとつの人格としてでなく、ひとつの力とみなすことにしたらどうなるだろう。自分のことも、あなたという力に対峙するもうひとつの力として位置づけることにしたら……そのときあの人は、わたしに及ぼす苦痛、ないしはよろこびによってのみ規定されることになるであろう。

(『恋愛のディスクール・断章』P.205)

やみくもに列挙された欲望は「あなた」の像を分散させる。それらにふれた「わたし」は、その個々にたいし共感や反発をおぼえつつ、けっきょくは相手のわからなさ(=自己との差異)や、みずからの欲望の謎へと回帰していく。そうして同様の効果を相手にたいしてもおよぼせたとき、コミュニケーションはもっとも幸福なかたちでなされる。あなたの編成した好きなものリストのなかに、わたしのことばや、わたしのつくられたものがげんに列挙されていることへのよろこびは、閉じた二者関係でのみなされる私信のたぐいや、たんに数値化されただけのいいねには、およそ代えがたいものだったはずだ(と書いていておもったが、やはりその意味でもこの名称は「いいね」以上に「ふぁぼ」のほうが適切だったのではないか)。

たぶん以上がtwitterのようなSNSの最大の美徳で、その点において自己をこまかく裁断し、それらをあつめ、わたしの欲望を再発見・再発明していくバルト的な方法論は、2010年代頃の覇権だったのだと、いまとなってはつくづくおもう。

逆にいえばその哲学がもはや効力を失し、病態化してしまったのが現在だということでもあるだろう。列挙されたもののうちから自他の差異を「読む」いとなみが適切になされず、恣意的・政治的・陰謀論的な、読みの過剰ばかりが蔓延するようになった。その反動のようにプラットフォーム側は読まれうる余白、つまり身体の次元をなるだけ剥奪する方向にうごき、ユーザー対アルゴリズムの閉じた関係へと操作範囲を縮減しようとしている。「わたし」はもはやその規定不能性により幻惑化する対象ではなく、明確な分類をあたえられた、ただの「商品」になってしまった――そういうことだろう。

それでもバルトを引き寄せてなおかんがえられるのは、上述した身体の次元や「わたし」の欲望の再認可能性の、いっそうの重要さではないだろうか。過剰な読みか読みの拒絶か――流行っている物言いでいうと「冷笑か誠実か」――、という安易な二項対立に堕することなく、わたしたちは中程度に、つまりバルトのように自他を読み書きする方法をなお訓練していくべきだとおもう。そうして「わたし」を再編成するすべの体得が、現状へのささやかな抵抗力になるのなら、どうだろう。

◆◆◆

こう書きつけたのはさいきんずっと思考の伴にしている、いぬのせなか座・山本浩貴の単著『新たな距離』の議論が年頭にあったからでもある。この著書のイントロダクション部では、書く実践のなかで小説ジャンルをはげしい審問にかけ、その過程のなかで「わたし」を成長させていく保坂和志の小説論にたいする批判的な乗り越えがこころみられていた。現実や「わたし」につよい優位性をみいだす保坂の小説論には、「わたし」とテクストとの距離をすっかり摩滅させてしまう危険性もあり、結果「わたし」じしんを直接の消費対象にする現今のポストフォーディズム状況と結託してしまう可能性があるのではないか、と山本は分析する。むろんこの指摘は上記したバルト的な哲学が効力をうしなった状況分析ともそっくりかさなりあう。

そうして、その山本がかわりにうちだすのが、以下のようなテクストにたいするスタンス。

人はテクストを前にするたびに、そこに自他の生に紐づく表現を否応なく(フィクショナルに)見出だしてしまう。これは、表現を行なう私の外部への反映を超えて、ただの(人工知能などが偶然的に出力しただけかもしれない)テクストを自他により刻み込まれた生の群れとして見つめることの避け難さ、何よりテクストの改変を生(の群れ)の改変と同一視してしまうという、ごくわかりやすい誤認のありようです。しかし、そのような修辞と生の連動という、酷く人間的でしかない領域をシンプルに露呈させることにこそ、言語表現の代え難さは垣間見える。そこで特に高速に試行錯誤され、辛うじて作り出されうるのは、私が外部から生の読み取りを強いられる仕組みそのものの検証/分解/再構築可能性(の場としてのテクストを見つめ操作すること)であり、私とは何かという問いの新たな形象化可能性です。

(「生にとって言語表現とはなにか」『新たな距離』P.70)

テクストから読み取れる書き手=「あなた」の存在をも、テクストの効果とみなすこと。ひるがえって「わたし」をも、テクスト操作のなかで変容・複数化させていくこと。この〈喩〉――これが以上に述べてきた「身体」なるものの正体だろう――、ないし〈アトリエ〉という概念を引きあいに、以降の山本はわたしの書き換え、を現状への抵抗可能性として提起していく。その圧倒的な議論の仔細にふれる余裕はここではないのだけれど、さしあたりそれが、ふしぎにバルトの述べていたものともかさなってみえたということだけ、いまは述べておく。「作者の死」でも知られるバルトの論は、テクスト論をはるかに超えた「わたし」の、さらにそのさきをも見据えた山本の論旨とはいっけん真逆の位置にあるふうにもみえるが、以下の『彼自身』の断章などをみると、むしろバルトの夢想は、山本の制作論をかねてより待望していたようにもみえてくるのだ。「わたし」をちいさくし、複数にし、他に組み込まれたり逆に組み込んだりしながら、「わたし」を再編成すること――その方法に憑かれていたバルトが死の直前まで「最初の小説」を準備していたことにも、いまあらためておもいをはせてしまう。

新しい主体、新しい科学 Nouveau sujet, nouvelle science
《主体は言語活動によって生み出されたひとつの効果にすぎない》という原理にもとづいて書かれた著述すべてに対して、彼は連帯感をいだいている。彼は、きわめて広大な領域をもつあるひとつの科学を想像する。その科学の言表行為の中に学者自身がついに組み込まれることになるのではないか――すなわち、それは言語活動によって生み出されるさまざまの効果についての科学であろう。

(『彼自身』P.110-111)

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