エリフ・シャファク 「レイラの最後の10分38秒」

これは殺人の被害者でイスタンブールのゴミ箱に無残に捨てたれたレイラが完全な死を迎えるまで ー心臓がその動きを止めてから、その脳が機能しなくなるまでー の10分38秒の間、彼女の断片的でパーソナルな回顧を通して1人の女性の人生と彼女の周りの人々を描く作品である。

 まず、死す目前、死を受け入れた時に回想するものは、自分を構成する上で必要不可欠で切り離しようがないものではあるだろうけれど、必ずしも大切な思い出、ノスタルジックな恋しさを感じるものではないとわたしは思っている。そのため、作者がレイラの幼き日々を美しい匂いや肌触りとして描いた意味を考える時に、かつて捨てたものへの未練と捉えるべきか葛藤がある。わたしが何故このように考えるかは自分自身の経験によるもので、作者のそれとは違うのではないかと感じているが最後まで確信は持てなかった。

 次にいくつか心に残ったキーワードを羅列する。相反するものと混じり合うもの、輪っか、窓、信仰、液体、死した後に残るもの、など。中でも信仰について、ノスタルジア・ナランとザイナブ122の対比が興味深かった。

 人間は鷹狩りのハヤブサに似ている。空へ舞い上がる強さと能力を持っていて、自由で軽やかでのびのびしているけれど、ときに、強制のもとか自らの意思で、囚われの身になることもある。〜見ることは知ることで、知ることは怖がることなのだ。多くを見ないほどハヤブサが落ち着くことは、どんな鷹匠でも知っている。〜ナランには、宗教もまたーそして権力やお金やイデオロギーや政治もー頭巾のような働きをしているように思える。迷信や予言や信仰といったものはみな、人間の目をふさいで心を落ち着かせながらも、その奥深くにある自信を、もはやなんでもかんでも恐れるものに弱めてしまう。〜あたし、ノスタルジア・ナランは、絶対に目隠しされたりしない。
 ザイナブ122はうなずきながら、深い悲しみに包まれていた。自分にとっての宗教は常に、希望と立ち直りと愛の源であり、地下の暗闇から信仰の光の元へ自分を運び上げてくれるエレベーターだった。その同じエレベーターが、かくもたやすくほかのだれかをどん底へ導きうるのだと思うと胸が痛んだ。自分の心を温め、信条や肌の色や国籍に関係なく、全ての人類を近づけてくれたその教えが、人間を分断し、混乱させ、引き離し、敵意と流血の種をまくもののように解釈されうるなんて。いつか神の元へ呼ばれ、その面前で話す機会がもてたなら、ぜひともただひとつの素朴な疑問を投げかけたいー気高く慈悲深き神よ、何故あなたはこれほどひどく誤解されるにまかせておられるのですか?と。

 作中では別々の、それぞれ魅力的な2人の人物として描かれているが、これらを同時に持ち合わせている人は多いのではないか。わたしもその1人で、死ぬまで考え続けてもひとつの答えは出ないように感じている。どちらも正しさと矛盾を抱えていて、それらは一見相容れないように見えるが、自己の中で折り合いをつけ、混じり合っているのだ。本書はイスラム教に内在する非倫理的な面を扱ってはいるが、作者はムスリムを単純にカテゴライズすることを嫌っているし、人物にそれぞれ属性を持たせていながらも、ステレオタイプとして認識することに警鐘を鳴らしている。

 普遍的なテーマとリアリティがわたし達を傍観者ではなく当事者に変えるという点で、わたしにとってサボタージュ・シナンの存在は大きい。“一番近しい人たちにわかってもらえないという、馴染みのありすぎた感覚“、“言葉をあまり重視してこなかった。〜感情を表に出さなくてはいけないとき、いつも以上に感情を隠してしまう“という彼の資質があまりにも自分とリンクしてしまったからだ。わたしは孤独を愛していて、コミュニティも友人も恋しくない。ただ大切にしたい人がいる、それだけで十分なのだ。シナンにとってのレイラのような。シナンは理解して貰おうとする努力を怠ったと見る人もいるだろう。言葉を信じるべきだ、友人は必要だという人もいるだろう。“水の縁の家族“の温かで尊い繋がりを描く作者もそう感じているのかもしれない。わたしはレイラの死後、シナンが仲間と関係を保ち続けるのか興味深い。彼は本当にそれを必要としているのかも含めて。

 レイラは娼婦であり、現実として社会から蔑まれがちだが、うつ病患者であり娼婦であり障がい者でありサボタージュ・シナンであるわたしにとって、レイラはあまりにも眩しい存在で惨めさは欠片もない。実際、作者もレイラをそのようには描いておらず、ここでも作者は社会の枠から外れた不幸な人たちという一般的なイメージに抵抗している。 ひとが、「わたし達だっていつでも彼らのようになり得るのだ」と言う時、「彼ら」をどのようにカテゴライズしているか立ち止まって考える必要がある。フィクションでありながらも、このように度々わたし達の意識は現実とリンクし、彼ら、彼女らは遠く離れた御伽話の人ではなく、すぐ裏通りを覗き込めば実在するかのように感じるのである。舞台が日本から離れたエキゾチックな国、トルコであるにも関わらず。

 作者の視線は温かい。レイラの母、ビンナスは科学とは正反対の場所にいる。迷信を信じ、文字が読めず、家父長制度の奴隷である。彼女の生き方は「進歩的な」ひとから一方的な指南を受けたり滑稽だと思われることがしばしばある。しかし作者は彼女の生き方を否定せず、ただそこにある事実として描いている。この姿勢は友人たちへも同じように向けられている。社会的には目を逸らされる存在かもしれないが、心の中は「普通の」ひとと同じように悩んだり、悲しんだり、また幸福を感じており、そこに隔たりはない。この平等に投げかけられる視線がわたしを居心地よくする。殺人事件から始まるショッキングな物語に居心地の良さを感じるのは不思議に思えるが、それが作者の俯瞰的な視点によるものなのだろう。俯瞰的な視点がリアリティーを持たせ、リアリティーが普遍性を持たせ、普遍性が共感を呼び起こすが、同時に自分とは違う人格だと自覚させる。わたしはシナンに共感するが決してシナンにはならない。そのバランスによって居心地よく居られるのだ。

 ここまで第一章について長く感想を書いてきたが、この小説の見どころは第二章だと思う。不規則な時系列と断片的な記憶からなる第一章と違い、前へ前へとぐんぐん進む。記憶の中に閉じ込められていた人物がイキイキと鮮やかに動きだす。読了後の爽やかさは、ユーモラスで愛に満ちたこの章によるものだろう。この物語の転調と言える章によって最終章の意外な結末を噛み締めることができる。

 現実を生きるわたし達はさまざまな枷によって他者への理解や寛容が難しく感じることがあるが、物語の世界を通じると、いとも容易くその枷を取り除くことができる。偉大なフィクションのなす術を実感しながら、わたしはレイラをこれからも記憶に留めておくだろう。レイラはわたしの中で生き続ける。

「レイラの最後の10分38秒」エリフ・シャファク著 北田絵里子訳

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