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13. 敢えて倫理的葛藤を引き受けるⅠ〜医療倫理の原則という枠

なかなか並び立たない医療倫理の原則

看護師として長く働くなかで、改めてその大切さを痛感しているのが、倫理的思考です。看護学生として学び始めた時から、その大切さはたたき込まれてきました。

改めて整理すると、医療倫理の原則は、以下の4つがあります。

①  自己決定の尊重
②  善行
③  無危害
④  公正

これは、どれも大切なことですなのですが、時にあちら立てればこちら立たず。看護師として経験する葛藤の大半が倫理的葛藤と言っても過言ではありません。

その代表的な場面が身体抑制で、私自身、救命のためには全身を抑制しなくてはならない経験もしてきました。<③無危害>のためには、<①自己決定の尊重>を敢えて軽視せざるを得ない……。

果たしてそれがどこまで許されるのか。本当は一切ダメなのか。多忙な業務の中では、考えずに流されてしまった時期もありました。

そして、30代後半のある時、避けようもなく倫理的な葛藤を抱き続ける、ある場面に関わったのです。

生体肺移植を待つトヤマさん

ある医療機関に緊急入院したトヤマさんは、50代の男性。肺移植が絶対適応となる肺疾患で、数年前から入退院を繰り返していました。

トヤマさんは、ずっと単身で、ひとり暮らし。両親はすでに亡く、きょうだいの協力はとても良好でした。

病気をよく理解しているトヤマさんは、生活にはとても気を遣っていました。それでも残念ながら、徐々に病状が進行。やがて日常生活でも酸素吸入が必要な状態になってしまいました。

病気の進行と並行して、模索されたのが、生体肺移植の可能性です。まずは身近なきょうだいから。臓器提供者として適合するか、検査が進められました。

その結果、すぐ下の弟が適合するとわかり、本人も迷わず承諾。提供者も決まり、あとはいつ手術をするか決めるだけになっていました。

トヤマさんはそんな時期に肺炎を起こして緊急入院。集中治療室に入った時点で意識はあったのですが、十分に肺が機能しないため、鎮静剤で眠らせ、人工呼吸器が装着されました。

生体肺移植の手術はできる病院が限られています。入院中の病院ではできず、これまで連携していた移植を行う病院と連絡を取り、実施が決まりました。

転院には、医師が複数同伴し、特別な車両で移動します。臓器を提供する弟、その他きょうだいが集まり、最終的な意思確認が行われつつ、日程を詰めていきました。

転院前日、弟はトヤマさんにこう語りかけました。

「兄貴、俺も肺をあげる準備のため、向こうの病院に向かうから。兄貴、今度目が覚めた時は、俺の肺で息吸えるんだぞ。がんばろうなあ」

しかし、弟が<向こうの病院>に行くことはなかったのです。

突然の移植手術中止

転院前夜。集中治療室では、転院のための準備が進められています。泊まり込んでいる主治医の元に、弟から思いもかけない連絡が入ります。

集中治療室に来た主治医が語ったのは、以下のような顛末でした。

弟は片肺を摘出する手術への恐怖が多少あったものの、いよいよその日が来たと高揚していたそうです。それを見ていた妻は、だんだん寡黙になり、理由を聞いてもはっきり言いません。

弟はそんな妻の様子は、想定内だっと言います。ある程度の不安はあって当たり前。自分にとってはかけがえのない兄だが、妻にとってはやはり他人だから……。そんな気持ちで妻を見ていたそうです。

ところがこの日、兄の見舞いから帰って入院の支度を始めると、妻は「今からでもやめてほしい」と泣き出しました。「今さらそんなことはできないよ」となだめても、妻は諦めません。

「よく考えてみたの。あなただって病気をするかもしれない。手術で片肺を取って、残った方の肺ががんになったらどうするの。手術ができなくて死んじゃうかもしれないじゃない」

この言葉を聞いて、弟ははっとし、体が震えたそうです。

「妻の言葉を聞いて、僕も怖くなりました。若くして病んだ兄は本当に可哀想で。片肺をあげたい気持ちは今もあります。でも、僕だって病気になるかもしれない。母は肺がんで亡くなりました。どうしても、それを思い出してしまう。僕はもう、肺を提供できません。兄にも会いに行けません」

弟の気持ちは固く、手術は中止。主治医によれば、移植を担当予定だった医師に状況を報告すると、全く驚いていなかったとのこと。

「よくある話なので、こちらのことはお気になさらず。後の対応は、お願いします」と言われたそうです。

きょうだいの反応

手術は中止になりましたが、鎮静剤で眠っているトヤマさんは、その事実は知らないまま。一晩明けて主治医に呼ばれたきょうだいの中に、弟の姿だけがありませんでした。

口火を切ったのは、別の弟でした。

「ここに来る前、あいつの家に行って、話してきました。ここにも誘いましたが、来れないそうです。兄貴の顔が見れないんでしょう。正直言って、きょうだいとして許せない気持ちもある。みな同じ気持ちです。でも、僕だって、絶対にあんな風にならないという自信もない。いざとなれば、弱いもんですから」

これを聞いて姉が、少し反発したように言葉を繋ぎます。

「私も適合しなかったから、何もいう権利はないんですけど。でもね、内輪の恥をいうようだけど、父の遺産相続の時、肺をもらうんだから、という気持ちもあって、自分の分を弟に譲ったのよ。こんなことになるなら、残り少ない人生、パッと楽しく使って欲しかったわ。今さら言っても遅いけど。なんか、割り切れない」

臓器提供には、金銭を介在させない原則があります。しかし、現実的には、相続を介してのやり取りがある。こうした現実も、しばしば耳にする話なのです。

本人への説明をめぐって

主治医が兄弟との話し合いで決めなければならなかったのは、手術の中止をトヤマさん自身にどう知らせるか。これは待ったなしでした。

トヤマさんの病状は落ち着いており、肺炎も改善していました。しかし、原病の悪化により、呼吸機能は極めて低下。人工呼吸器からの離脱は慎重を要し、鎮静剤で眠らせたままの状態が続いていたのです。

とはいえ、眠っているのはあくまでも鎮静剤の効果。減量すれば意思の疎通は図れるでしょう。

主治医はこうした現状を伝え、今の医療では患者自身に関することは、患者自身に知らせなければならないのが鉄則。自分としては鎮静剤を減量してトヤマさんに、手術が中止になったことを伝えてほしいと説明しました。

しかし、きょうだいは主治医の説明には納得せず、異口同音に「意識がないなら、そのままにしてほしい。知らないままで死んでいく方が幸せだと思う」。

しかし、この時の病状では、呼吸器さえつけていれば、長期の延命が見込めました。状況によっては、もう一度呼吸器を外せるかもしれません。

きょうだいの言うような、「知らないままで死んでいく」というのは、予後を考えてもあり得ない。それが主治医をはじめとする医療者の意見でしたが、きょうだいの気持ちは固く、数日後にまた話し合うことになりました。

ところがこの話し合いから数日後。トヤマさんは突然の不整脈で急逝してしまいます。思いがけない形できょうだいの願いは叶ったわけですが、本人への説明を強く勧めていた医療者もまた、安堵の気持ちが浮かんだのも確かでした。

医療倫理の原則に照らすと

私自身は、トヤマさんを巡る経過のごく一部に関わり、詳細は後日関係者から聞いています。そのため、伝聞が多く、一部曖昧な書き方になっていることをお許しください。

しかし、ごく一部に関わっただけでも、この事例は後々まで、私の葛藤を引き起こしてきました。それは、まさに倫理的葛藤。以後、看護を巡る葛藤の大半は倫理的葛藤なのだと思うに至っています。

ここで改めて、トヤマさんに病状を伝えるべきであったかどうかを考えてみます。

医療倫理の原則に照らせば、トヤマさんには<①自己決定の尊重>に基づき、病状を知る権利があります。これは当初から明らかでした。

しかし、一方で、私自身迷いもありました。弟が臓器を提供しないと決めた以上、トヤマさんがどう望んだとしても、臓器移植はできません。

選択の余地がないのに、病状を知らせたところで、自己決定などできるのか。苦しませるだけではないかという気持ちが、私にもあったのです。

きょうだいが言うように、「知らないまま死んでいく方が幸せ」なのではないか。そのため、「何がなんでも本人に教えるべき」という気持ちにはなれなかったのです。

倫理的な正しさとその人の幸せ

あれから20年以上が経ちました。医療倫理について考える機会を重ねたことで、いろいろと考えが変わってきています。

トヤマさんについて、今ならどう考えるのか。「やはり、本人に移植手術の中止を伝えないことはあり得ない」。これが私の結論です。

確かに、現状を伝えたからといって、トヤマさんが選べる選択肢は広がりません。しかし、「知っても何もできないんだから、知らなくていいんだ」という考えは、医療者として、あまりにも粗雑。治療の選択肢があるかどうかと、知る権利は別問題のはずです。

できればトヤマさんには、移植ができなくなった現状を伝えた上で、今後どうしたいかを聞いていく。具体的には、人工呼吸器からの離脱に挑戦するのか、しないのか。移植という道があるのとないのとでは、希望も変わるでしょう。

その後、さまざまな医療機器が進歩しています。今なら小型の人工呼吸器を装着して家に帰る人もいます。当時は困難だった選択が、今ならできる可能性もある。「できない」「無理」と医療者が決めつけては、道が開けません。

とは言え、こうした時代の変化があったとしても、あの状況で、「知らないままで死んでいきたい」と考える人もいるでしょう。それは心情的にわかるところです。

それでも、倫理的判断としては、知らせる以外の解はない。その考えに、迷いはありません。

つまり、医療倫理の原則に照らして正しいかどうかと、本人が幸せかどうかは別の話。たとえ移植の中止を知らないまま亡くなったのが、トヤマさんにとって幸せだったとしても。教えないのが倫理的に正しいことにはなりません。

私たち医療者は、患者より先に患者の情報を知る可能性があり、さらに、命さえ左右しうる力を持っています。だからこそ、決して踏み越えてはならない枠として、医療倫理の原則は必要。それは私たちが適切に畏れ、自らを律するために、必要な外圧なのです。

医療倫理の原則を含めた看護職が守るべき倫理指針として、<看護職の倫理綱領>があります。社会正義や多様性の尊重など、日本国憲法に通ずる内容。かなりイケています。倫理に関心のある方は、是非ご覧ください。

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