安全より自由の方が大事、未成年は保護しよう運動の裏で死ぬ子ども

昨今自由よりも安全が大事にされている。
不快なものは徹底的に排除して我々が誰も傷つかない安全でクリーンな世界を大衆は求めているようだ。

しかし、私のようなダメ人間はとてもじゃないがそんな綺麗なところじゃ気持ちよく住めない。
みんながバカなことしたり失敗したり傷つけたり傷つけられたりしながら運営していく社会の方がいい。

でも今はそんなことは到底許さない。今や漬物すら販売するのに許可がいるという。
生レバーは食べられないし、何年か前には鶏肉の生つくねを出していた老舗店がSNSで血祭りにあげられ閉業していた。

私は、自由の結果死ぬ人がいるとしても自由であるべきなのだと思っている。
特に最近の重要な出来事は性規範や未成年の問題である。

未成年は保護しよう運動は一見すると誰もが賛成して当然のことのように思うが、私はまさに保護を強くすればするほど親元に縛り付けられて死ぬ子どもは増えるし、トー横みたいな場所に逃れてくる子も出るだろうと思っているのである。

しかし、未成年を保護しよう論者というのはこの裏側というのを全く見ていない。まさか未成年保護を言った結果死ぬ子どもがいることなど全く頭にないであろう。
あるいはこういうかもしれない、そういう子を施設で受け入れて〜みたいな。
でもそれだって堂々巡りなのだ。施設で被害に遭ったらどうするのか、そもそも全員施設に入れることはほとんどできないであろう。

また未成年は保護しようなどと言っておきながら未成年が犯罪をすると、途端に保護など忘れて名前出せ!顔出せ!退学だ!という
結局未成年保護しよう論者は未成年を都合よく操作したいだけなのだ。
もし、本当に保護をいうのだったら未成年が犯罪をした時だって、彼らは未成年で判断力に乏しいのだから仕方がないと言って擁護すべきである。
ところがそんなことを言ってる人は私にはほとんど観測できない。
普段は未成年は判断力が未熟だから保護しなきゃいけないの!と噴き上がってる人ほど未成年が犯罪に手を染めると急に責任を取らせたがる。

またいずれ書くが、性交同意年齢の引き上げは明確に失敗であったことはその後の未成年をめぐる犯罪の中でほとんど確定しただろうと思う。

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