オキナワンロックドリフターvol.120

期末考査が終わり、夏期休暇になった。
8月末にバイト先のオーガニックカフェを退職した。
バイトリーダーの草壁さんには「お疲れ様。私も来月には辞めるけん」と耳打ちされた。
オーナーの赤星さんには去り際に「あなたは何をやってもうまくいかないわ。絶対に」と毒づかれ、その呪いにげんなりした。
8月は聖歌隊の練習や教会礼拝でのミニコンサート等があるのでそれらに専念し、9月10日~16日まで沖縄旅行を満喫することにした。
幸い、スカイマークの格安航空券が買えたのであとは宿探し。しかし。折しもサンライズホテル、デイゴホテルは満室、さらに、コザクラ荘はゲストハウス営業をされていないとのこと。
じゃらんと楽天トラベルをにらめっこして、園田にある古いホテルを見つけてそこを予約した。
さらに。さっちゃんが就職を機に、うるま市のアパートを借りているとのことなのでさっちゃんのご厚意に甘えて12日、13日の2日間宿泊することになった。

1年半以上ご無沙汰の沖縄だ。
私は久しぶりに会う親しい人たちの顔を思い浮かべながらスカイマークエアラインズの昼の便に搭乗した。
空港に着くと真っ先にこれから会う人たちにメールと電話で連絡。さらに、奇遇にも、正男さんライブを見に行かれたカイさんが11日に夏期休暇で来沖することになり、12日の昼にココナッツムーンにて会う約束をした。
私はいつもどおり、那覇空港からゆいレールに乗り、那覇バスターミナルからコザ行きのバスに乗った。
普天間に途中下車し、普天間宮に参拝をして、またバスに乗り、プラザハウス前で下車。
そういえばお昼を食べていないなと思い、プラザハウス内の老舗タコス屋である『セニョールターコ』で遅いランチをとることにした。
タコスはタコシェルが分厚く柔らかすぎて少し合わなかったが、タコライスは絶品で、今は亡き19thホールタコスの次に大好きなタコライスとなった。
ホテルはプラザハウスから徒歩10分のところにあった。しかし。飼っているチワワにいきなり吠えられ、固まってしまった。私は犬が苦手だからだ。

チワワに吠えられ、どうしようか固まったままでいると、ホテルのおかみさんが苦笑いしながらチワワを抱えてくださったのでその隙にチェックイン。
鍵を渡され、荷物を抱えて2階の部屋へ。
ホテルの部屋は思ったよりも簡素で、部屋の殺風景さと反比例してバスルームだけが広々としていた。
汗をかいたのでひと風呂浴びることにした。
Aサイン時代、きっとアメリカ兵がお目当ての女の子を連れ込んだんだろうなとやたら大きな湯船につかりながらそんなことを思った。
着替えて窓を開けると湿った風が吹く沖縄にしては涼しい風が吹いていた。沖縄はまだ夏の盛りと思いきや、風の涼しさで秋を感じた。
私は城間兄弟から指定された会食の場所、リマレストランへ向かった。
道路の向かい側ではすでに城間兄弟が店内へ向かっていた。私は急いで横断歩道を走ってリマレストランへ。
ぜえぜえ息をきらしていると、「珍しいね。あんたが後から来るなんて」と俊雄さんの声が聞こえた。
正男さんが笑顔で手を振られたので私も手を振り返した。
先に席に着かれたお二人はアロハシャツにジーンズ姿だった。
俊雄さんが、さくらももこかおーなり由子がデザインしたような柄のアロハシャツ。正男さんが虎柄。相変わらず凄まじいセンスである。
正男さんはふふふと微笑み、「まいきーとここで食事しようと思ってさ、ここはAサイン時代によく通っていた店だから」とおっしゃった。
リマレストランは1960年創業。Aサイン時代の面影を残す貴重な店舗だ(現在は閉店。店も解体。跡地は民宿になった)。 紫時代、城間兄弟はリマレストランによく通っていたという。
店内を見回しながら俊雄さんは呟かれた。
「ここも変わったね。あ、メニューも減ってるし」
正男さんは背の高いボックスをぽんぽんとはたきながら言った。
「でも、内装はだいぶ残ってるさ。まいきー、このボックスがAサインならではでしょ。当時はガイジンが多かったから、こんな背の高い椅子とかが多かったわけ」

俊雄さんいわく、当時は三星飯や八宝菜といった中華もメニューにあったらしい。正男さんは特に三星飯をよく食べていたようでどんなメニューか懇切丁寧に教えてくださった。しかし、中華のあるメキシカンとは。沖縄らしさというか、てーげーで興味深かった。 それから三人でとりとめのない話をした。お互いの近況や変わり行くコザのことや2009年の衆議院選挙により揺れるこの国のことやミュージシャンの話など……。
「コザ文学賞受賞おめでとう、ジミーもきっと喜んでるさ」
正男さんはそういって乾杯してくださった。
俊雄さんは続けられた。
「ギターの描写がよく書けていたよ。あんた、コザがコザらしかった頃に間に合ったんだね」と。
ジミーさんの幼馴染である城間兄弟に文章をほめられたのが何よりもうれしかった。

注文した料理が運ばれた。

正男さんはエンチラーダ、俊雄さんはチリコンカルネとライス、私はタコスをオーダー。
俊雄さんは付け合せのガーリックトーストを私と正男さんに渡すと、チリコンカルネをカレーライスのようにご飯にかけて食べた。
「こうやって食べるのが好きだから」
行儀はよくないかもしれないが、楽しそうにチリコンカルネライスを頬張る俊雄さんは少年の名残があった。
その日の俊雄さんの食欲は旺盛で、ライスをもう一皿オーダー。久しぶりのリマレストランの味を堪能しておられた。
一方、正男さんはエンチラーダの味が濃かったのか、「味が変わったね。塩辛いよ」とぼやきつつしきりに水を飲まれていた。
私は緊張と幸せからの興奮の余り食欲がなくチマチマとタコスを食べていたので、お二方から「具合悪いの?」、「ホテルで食事済ませたの?」と心配そうな顔をされたので「いえ。あまりに幸せだから緊張して」と正直に話したら「なんで?緊張することないさ」と俊雄さんに頭を撫でられた。
そのとき、正男さんの携帯が鳴った。
正男さんに用事ができ、正男さんがいったん席をはずした。席には私と俊雄さんが残された。
チリコンカルネを食べながら、俊雄さんは紫時代の話や、アイランド時代の話をぽつぽつとされた。

今は昔、ドル札の舞う華やかなりし頃の紫時代。バブル最盛期のアイランド時代。特にアイランド時代ではなかなかポップミュージックが受け入れられず、店内イベントで盛り上げたりと創意工夫を凝らしたという。俊雄さんの話を聞いていると、何故アイランドが成功したのかはお二方の先見の明とホスピタリティーからなのかなと感じる箇所があり、同時に凋落したのは、どんぶり勘定とブレインの不在(複数名該当する人たちがいたのだが成功に舞い上がり、きちんとブレインとなる人々に還元しなかった)、取り巻きによるスポイル、そして彼らの慢心と放漫経営、アイランド末期の泥縄状態な経営とテコ入れなのではないかなと頭の中で分析した。

アイランド時代のエピソードやピースフルラブロックフェスティバルにて自腹でステージに大量の風船を飛ばしたエピソード、それらを話すときの俊雄さんの遠くを見るような瞳は忘れない。同時に、明らかに音楽活動再開を急く焦燥感と全体的に黒雲のように覆う不安が俊雄さんから満ちていた。
俊雄さんは私の二の腕を掴み、すがるように言った。
「不安なんだよ。俺はやりたいことがたくさんある。けど空回りしていく。なあ、あんた、どうしたらいい?どうしたら?」

なのに、そのときの私は「大丈夫、きっとチャンスはめぐるから」と気休めしか言えなかった。
俊雄さんを抱きしめるしかなかった。恐らく俊雄さんは、内心そんな私に失望したのだろう。寂しげに笑った。
ああ、あのときの私に蹴り入れてやりたい。すべてが遅すぎる今となっては。そして、あの時。俊雄さんにどう答えるべきだったのだろう。どうしたら俊雄さんの不安を和らげることができたのだろう。未だに答えが見つからない。

1時間後に正男さんが帰ってきた。正男さんはデザートにと、アップルパイをオーダーしてくださった。

「リマレストランのお勧めはメキシコ料理はもちろん、アップルパイもだからね」とよくデザートにアップルパイを頼まれたことを話しながら。
ソフトなクッキー生地のようなパイ皮に包まれた煮林檎は甘さ控えめ、シナモンが程よくスパイシーだった。
しかもこの夕飯は城間兄弟からご馳走してくださった。いやはや。
帰り際、俊雄さんから、「まいきー、あんたこれ好きでしょ?」と果物がたくさん入った袋をいただいた。

見ると、グァバがぎっしり詰まっていた。
「うちの庭のだけどね。今が食べ頃だから急いで食べてね」
正男さんがはにかんだ笑みを浮かべられた。
うれしくて、うれしくて、お二人と握手をしながら言った。
「また、3人で食事しましょうね」
城間兄弟はうなずかれた。
その日は今まで生きてきた中で屈指の幸せな日だった。

大好きな城間兄弟がいて、その城間兄弟の思い出の場所で食事した日。
あまりの嬉しさに私はくじゃく姐さんに電話した。
姐さんは「まいきー、落ち着け!」と苦笑しながらも「良かったね。夢が叶ったんだ」と呟かれた。
そう。夢が叶ったのだ。
城間兄弟と微笑みあいながら食事するその夢が。
私は有頂天だった。気が遠くなるほど幸せだった。
これが3人で会食する最後の日になるなんて思わなかったのだから。

(オキナワンロックドリフターvol.121へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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