オキナワンロックドリフターvol.105

まるさんを見送り、二度寝した。ふとんにくるまりとろとろと微睡み、コザクラ荘スタッフの野口さんがくるまで惰眠を貪った。
起きたらブランチだ。そういえば、まだビクモンに行ったことがないなと気づき、ビクモンでハンバーガーを食べることにした。ビクモンとは、かつて沖縄にあったハンバーガーチェーンだが、当時既にコザは一番街に最後の1軒が営まれていたハンバーガーの店である。(2008年秋に閉業。それにより、ビクモンは絶滅した)
10人のインディアンを口ずさみたくなるようなビクモンのマスコットキャラクターである、ハンバーガーを手にしたネイティブアメリカンの子どもを横目で見ながら店に入る。
店はレトロな雰囲気で店に飾られたゴレンジャー等のソフビ人形がいい味を出している。
店を切り盛りされる老夫婦がゆるゆると作るハンバーガーは、昔、マクドナルドやモスやバーガーキングに完全駆逐される前に、小さな街に必ず一軒はあったハンバーガーショップの懐かしい味がした。柔らかいバンズ、肉の味はするけれどどこかチープなパテ、反してふんだんに使われた新鮮な野菜が織り成すノスタルジックな味。美味しいけれど時の流れの中でやがて消え、忘れ去られていく味だなと思った。
さて、沖縄旅行もあとわずか。24日の昼には帰らないといけない。既に荷物の大半はお土産と一緒に送り、小さなナップザックに入れた着替えを着まわしするしかない。私はしばらく沖縄にこれないだろうからとプラザハウスから銀天街まで散歩をすることにした。
ひがよしひろさんが主宰のライブイベントまでまだまだ時間がある。それまでコザの街をしっかり目に焼き付けることにした。
途中、パークアベニューにあった小さなネットカフェでメールチェックをしたり、寒かったのでインド屋でビクターさんとゆんたくをしながらチャイを飲んだりした。
コザの街を歩いてしみじみ感じたことは空気が以前に比べて淀み、閉塞感がものすごいということ。これにはかなり落胆した。この先、コザはどんどん馴染みの店がなくなり、廃墟になるしかないのだろうかと不安になるくらい街は死にかけていた。
私は大きくため息をついた。
すると、私の背後でクラクションが鳴った。振り返るとやたら派手なデコトラが信号待ちをしていた。よく見ると、鼓響館と書かれている。なんと、運転席のチビさんのマネージャーさんと助手席のチビさんが手を振っているではないか。
私はチビさんたちに思いきり手を振った。チビさんはまるで王族のように緩やかに手を振り、マネージャーさんは対照的に大きく手を振ってくださった。
午後の黄金色の日差しに照らされた鼓響館のトラックを私は小さくなるまで手を振り、見送った。
その時はこう思った。マネージャーさんがいる限りチビさんは大丈夫だろうなと。しかし、後に書く予定だが、この年の秋にそうならなかったことを知ることになり、私はやりきれない気持ちになった。あのトラックでの、チビさんとマネージャーさんの、蜜月が集約されたような笑顔を思い出す度に今も苦い気持ちになる。

閑話休題。

そうこうしているうちに時間は迫り、私は急いでシャワーを浴びるとひがさんたちに渡すお土産をバッグに詰めると北谷行きのバスに乗った。
錆びたような色合いの西陽を浴びてバスはゆるゆると美浜アメリカンビレッジまで。
ライブハウスモッズの開場まで時間があるので、私はアメリカンビレッジの、さながらアメリカ西海岸の街を模したような作りの外観や海を見ながらうろちょろした。
やがて、開場時間になり、私はモッズへ戻った。オーナーの喜屋武さんに会釈して、中に入る。ドリンクは悩んでモスコミュールにし、つまみとしてチーズスティックもオーダーした。
しばらくして見知った顔が会場に続々と入ってきた。ムオリさん、チーコさん、最初の飲み会に参加されたみけにゃさん、そして、mixiではやりとりしているものの、オフラインで会うのははじめてのひがよしひろさん。皆さんにお土産を配りながら私は軽く雑談したものの、いまだに14日~15日の傷は私の中で疼き、膿んでいて、チーコさんの「今回は随分と長く滞在したね。コザは楽しい?」という言葉にカタカタ震えるしかなかった。
私の尋常でない震えを見たみけにゃさんが先陣をきり、私にいきさつを話すようやんわりと促し、思いきってあの日の出来事を打ち明けた。
ムオリさんは「また無茶したねえ」とのんびり呟き、チーコさんは「今のコザならありえるね」と一言おっしゃり、みけにゃさんは私の背を何度も擦った。ひがさんはただ私の話を黙ってきいてくださった。
そして、ライブは開演。今回はひがさんと仲のいい沖縄ミュージシャンだけではなく、県外のミュージシャンを2名呼ばれていた。ひとりはジプシーキングスを思わせる音楽性の、弾き語りをされる方。もうひとりはどこかとぼけた雰囲気をまといながらもコミックソングや日常を切り取ったようなバラードを弾き語りをされる方だった。
しかし、ひがさんの唄うブルースや、チーコさんのハスキーボイスによるソウルミュージック等聴かせるものもあったが全体的に感じたのは“内輪受けで留まり、澱んでいる音楽”ばかりだなという印象だった。
ムオリさんのギターも不満が何かあるのか全体的に散漫な感じがし、首を傾げていたらすぐさまステージ上のムオリさんに気づかれた。
ライブが終わり、帰りはムオリさんの車で送っていただいた。
ムオリさんからは「つまんなかった?」と尋ねられた。私は「つまらないわけではないの。ただ……」と、もごもごとオブラートで包みながらも気になったことを話した。ムオリさんは「沖縄の悪いとこだね」と返しつつも、「まいきーも沖縄ロックばかり聞かずになんか他の聞きな」とちくりと嫌味を言われた。確かになあ。今は音楽の幅は広がり、煩雑にはなっているけれど、それを言い訳に新しいものを聞かないのもいけないかなと思い、ムオリさんの言葉に頷いた。
ゲート通りで下ろしていただき、しばらくコザを散歩することにした。中の町を歩いてみた。オーナーをディフォルメした似顔絵を全面に出した『ジャンバラヤ』や前回の旅で立ち寄ったカラオケバー『ザ・ベストテン』、酔客の腹を満たす『キッチン佐世保』等を横目で見ながら歩いているとお腹が空いた。
歩いていたら『きく石』という日本蕎麦屋があったのでそこで蕎麦をたぐることにした。
舞茸の天ぷらを添えた蕎麦をいただいた。
鰹出汁ベースの濃くてしょっぱめな汁に蕎麦の旨味が広がり、美味しくいただけた。
夜中に食べちゃったなあと思いながらも温かいものを食べたことによる落ち着きで満たされながら、また中の町やゲート通りを歩いた。
ゲート通りは週末だというのにがらんどうで、いつもは開いている筈の“Key Stone”ですら、店を開けず、看板も出ていなかった。
JETや7th Heaven Kozaに行く気にもならず、しばらく歩くと私はコザクラ荘に戻り、またみのむしのように布団にくるまり、眠ることにした。
朝がきた。私はノロノロと起き、町の小さなファミリーレストラン兼お弁当屋といった雰囲気のふらんどる(現在は閉店)でお弁当を買うと、それを朝昼兼用にして食べた。良い意味で昔ながらのパパママストアならではの、素朴かつ手の込んだお弁当だった。
今日はコザ滞在最後の日だ。しかも、FMコザに出演。どうなるかなと思いながら、私はコザ食堂に行き、アイスティーを飲みながら栄子マーマーにしばしの別れを告げた。
「また来るでしょ?」と言われたので私は頷いた。
私は栄子マーマーに握手し、別れた後、人気のない場所で城間家に電話した。幸いなことに電話には正男さんが出た。
「正男さん、明日帰るからしばしのお別れということで」
私の言葉に正男さんは、「わかった。またおいで。その時は俊雄も落ち着いているから。……俊雄にかわる?」
正男さんの申し出を私は断った。
「いいです。私の言葉は今の俊雄さんには届かないでしょうから」
正男さんは「わかった。来月から大学生だね。勉強頑張ってまたおいで。行ってらっしゃい、まいきー。また来た時、お帰りを言わせてよ」
その言葉に鼻の奥がつんときた。正男さんがお帰りを言ってくれる。そこまでたどり着けた喜びを私は心の奥で噛み締めつつ、FMコザに出演することを正男さんに告げた。しかし、「FMコザかあ。僕らの家では聴けないかもなあ」と返された。
私は少しがっかりしながらも、うっかり聞いた俊雄さんが激昂するかもしれないし、聞けないほうがいいかもと思いつつ、「私の視点で正男さんと俊雄さんのいいところを語ります」と正男さんに宣言した。
すると、正男さんは「まいきーだから、信じてるよ」と返された。
私は救われた気持ちになり、電話を切ると、自分を鼓舞するように自分の胸を軽く拳で叩いた。

(オキナワンロックドリフターvol.106へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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