オキナワンロックドリフターvol.86

受験日がきた。その日はやたら寒く、私が乗る電車が遅延したりと非常にやきもきした。
電車とバスを乗り継ぎ、受験会場である大学へ。
現国、英語の後、小論文、そして面接だ。
現国はかなり手応えがあった。しかし、英語は……。
独学で頑張ってはみたものの、高校時代、ろくに勉強していないのが災いして満足のいくものではなかった。やばい。小論文と面接でリカバリーするしかない。果たして可能だろうか?
小論文の課題は、高校時代の恩師がアドバイスした通り、エッセイからの抜粋とそれをもとに小論文を書くと言うものであった。
課題は『個性について』だった。
高校時代に小論文のコンテストがあり、『個性について』という課題が出された。私は大槻ケンヂ氏が『のほほん雑記帳』にて書かれた「個性というのは自分は砂粒のひとつではないと意気がるよりも砂粒の中にいても光るのが個性」という言葉を引用して書いたところ、思いの外、その小論文は高く評価され、優秀作品に選ばれた。
奇しくも同じ課題だ。これは勝算ありだ。
私は記憶の中の文章をトレースしつつ、現在の風俗や生活必需品といった言葉をちりばめ、10年前に書いたものをリブートした小論文を提出した。
どうにか制限時間内に書き終えた。
回答用紙を回収する教授陣の中に、私を「ふぅん」と一瞥した、ジョン・ウェットン似のベルガー教授がいた。うわ、よりによってこの教授かよ。
ベルガー教授は私の回答用紙を一瞥し、呟かれた。
“See you again in April(4月にまた会おう)”と。
ん?ということは?
受かる可能性は一気に高くなったのか?私はベルガー教授の予測が外れていないことを強く祈った。
次は面接である。私は面接が何よりも苦手で、空回りするかとちるかしてろくな結果にならないことばかりだったからだ。
実際、私の喋りを不安に思われた中道さんは、受験日前夜にこう忠告メールを送られた。
「焦らない、ゆっくり話す、そして一呼吸置いて相手に話をさせる、一方的にまくし立てない」
それらは頭ではわかってはいるものの私には難易度の高いものだった。
私は煉獄で裁きを待つ亡者のような気分で順番待ちした。
私の番がきた。面接官は少し渡辺謙氏に似ている、長身の男性教授(後に私はその風貌から教授を“軍曹”とこっそりあだ名をつけた)と白くなった髪をバレッタでまとめた初老の女性、板倉教授だった。
ギクシャクと一礼し、ガクガク震えながら聞き漏らすまいと“軍曹”と板倉教授の問いに答えた。やはり、お二方とも30近い年齢で受験することが気になっていたようでそこを指摘された。私は一呼吸置き、学ぶことを諦めきれなかったことと、やっと熊本でも私の学びたいことがこの大学にあったから受験したとある程度のオブラートにくるみながらも本心を伝えた。
板倉教授が微笑まれた。よし、後は“軍曹”の反応を軟化させたらなんとかなるかもしれない。
その時の私はまるで鳥居燿蔵を狙撃するチャンスを狙う夢屋時次郎のように集中力をフルに使っていた。
“軍曹”から質問された。
「コサイさん、大学を出て貴女が社会に再び出てやりたいことは何ですか?」
そこで私のヒューズが飛んだ。
受験の1ヶ月前、比嘉清正さんを取り上げたルポルタージュ『皿の上の人生』の著者、野地秩嘉氏のルポ『キャンティ物語』をアマゾンで購入し、何度も何度も読みふけったせいか、すっかりキャンティの創業者である川添浩史(紫郎)・梶子夫妻の文化を育むその姿勢に感銘し、私の口は油を一面にぶちまけた床のようにすべりまくり、思い切った発言をかましてしまったからだ。
「文化を育み、その輪を広げられる人間になりたいです」
「詳しく」
“軍曹”が私の言葉に食い付かれた。
その後の私は何かに憑依されたかのように、なりたい自分である川添夫妻と夫妻が見いだした芸術家や成したことの詳細を語り始めた。
さらにかなりのビッグマウスをかましたのは覚えている。
私の言葉に板倉教授が感心されたのはほっとしたが、“軍曹”は明らかに引いていた。しかし。
「大変興味深い意見でした。僕は川添夫妻を知らないから勉強になったよ」という言葉を頂けたのは幸いだった。
面接が終わった途端、疲労と消耗から一気に発熱した。
解熱剤を飲む前に何かを口に入れようと大学近くの商店街に入り、老夫婦が営むパン屋で玄米パンを買い、モシャモシャと食べ、自販機で水を買うと薬と一緒にそれをがぶ飲みした。
ふらふら歩くと商店街の近くに神社があり、私は賽銭箱に100円入れるとすがるように祈った。

受かりますように。いや、受かれ!受からなきゃならないんだ。

たぶん、神社に祀られた神は私の般若のような形相に怯えたかもしれないなと思いながら、神社を後にしてバスに乗り、家に帰った。

家に着くなり疲れ果て、こんこんと眠った。
翌朝、朝食をとると祖母がアメリカから郵便物がきていたと箱をかざした。
差出人はジョーイ・ピーターソンと書かれていた。
My Spaceで知り合ったルイジアナ在住のオタク友達からだった。
箱を開けると、あまりうまくない字で“Hope that you can pass the exam, Ganbatte”と書かれたグリーティングカードと、ルイジアナのお菓子であるプラリネという、ピカンナッツを練乳やキャラメルで固めたやたら甘いお菓子の詰め合わせが入っていた。
祖父母の分と私の分とプラリネを3等分し、濃い目に入れた緑茶でそれを味わうと糖がくたびれた脳を活性化させたのか、体がしゃっきりした。
私は直ぐにお礼状を書き、コンビニでハイチュウやたけのこの里といったお菓子を買い込み、それらを同封してジョーイに送った。

それからの2週間はひたすら合否通知を待っていた。受かりますように、受かりますようにとただひたすら祈った。 そして、12月13日。通知が届いた。 その日は珍しくフルタイムシフトで、私は主任に叱咤されながらもチキンの調理や倉庫の整理などで慌ただしくしていた。 メールがきたのは休憩時間だった。 遅い休憩時間になり、私はおにぎりを頬張りながら携帯でメールチェックしていたら叔母からメールがきていた。

「ミキさん、大学から通知が来ていたよ。良かったね。合格おめでとう」

私は一気に脱力し、それからの記憶がなかった。

記憶が戻ったのは帰りの電車を待つ駅のホーム。電車を待ちながら、私は思い切りガッツポーズをした。
やっと、願いがひとつ叶った。良かった。良かった。
しかし、まだ喜んではいられない。
学費の問題があった。一か八かの博打だが、母が残した保険金が私名義で預金されていたはずだ。
取り戻そう。私の夢は私のものだ。
私は意を決して父の職場に内容証明の形式で母の遺産について問い合わせる手紙を書いた。

(オキナワンロックドリフターvol.87へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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