オキナワンロックドリフターvol.9
再結成ドキュメントで煙草くゆらせていたギタリスト、比嘉清正が目の前にいる。
ああ、本物だ。清正様だあ。ダンディでかっこいい!と感極まって泣いていると清正さんはうろたえながらも岡田眞澄さんを思わせる低く艶っぽい声で「おや、どうして泣くの?それに清正様さんでいいんだよ。"様"は付けなくてもいいのに……」とおっしゃった。
私は涙拭き、「いやー。自分、熊本に住んでまして清正様の名前って加藤清正公を思わせるのと、清正様ってお侍然としていてつい、清正様って……」
すると清正さんは「わざわざ熊本から?」と、驚き、握手をしてくださった。
その手は大きく硬く、かつ、しなやかだった。
紫時代に清正さんが愛用していたヘビーゲイジの弦はこんな感じなのかしら?と一瞬思った。
ついでに写真をとることにした。
ちなみに、低音の魅力あふれる声での「ピース」と、ピースサインは一生忘れられないものに。
清正さんは見た目とは裏腹にチャーミングな性格のようだ。
さらに、隣のビーチで行われているシルクスクリーンとレーザー光線によるアートを指差し、「ほら、見てごらん。綺麗だね」と清正さんが私の手に肩を置かれた時には、頭の中のヒューズが飛びそうになるくらい体温が上がり、今までの苦労の半分は報われた気がした。
肩に置かれた清正さんの手の温もりの余韻に夢見心地でいると、清正さんは「出かけるねー」とスタッフルームへ。
きょとんとしていると、スタッフの方であるアロハシャツが異様に似合う老夫婦から、清正さんは前夜の台風の後片付けを朝からして、だいぶ汗をかかれたから一度家に戻られることを伝えられた。
「お疲れ様ですー」と、去り行く清正さんの背中に声をかけて海を眺めつつ酒を飲んだ。
すると、入れ替わりに携帯が鳴った。着信音はIslandのStay with me。俊雄さんからの着信である。
幸せが立て続けにやってきて、私の心臓は止まりかけた。
大きく深呼吸をして、電話に出ると俊雄さんから「城間です。今どこにいるの」と問われた。
もしかしたら、コザにそのままいたらどこかで待ち合わせして会って食事でもしていたかも、残念なことをしたなと思いながらも、ココナッツムーンにいることを話した。
俊雄さんは少しの沈黙の後に「わかった」とぽつんと呟くと、翌日の約束の最終確認をされた。良かった。キャンセルじゃなかった。会えるのを楽しみにしていると告げて電話を切ったものの、清正さんに会えたことと俊雄さんからの電話という興奮と多幸感から胸の早まる鼓動が押さえられず、だんだん喉が渇いてきたのでオリオンビールを追加注文することにした。
夜21時くらいになるとどやどやとほかのお客さんも来店されて店は混みつつあった。
さらにこの日は結婚式の二次会としてココナッツムーンが使われ、パーティー席ではしゃぎ騒ぐ団体客、定食をつつく仕事帰りの外国人女性客、スタッフの方と気楽に話をする常連客、少しデビューした頃のUAを思わせる風貌の歌手の方、そしてカウンターで場違いな赤いチュニックを着てタコスをむさぼる私といった人々が織り成す珍妙な雰囲気が店内を覆った。
タコスはぱりっとしたハードシェルで、タコミートはやや淡い味付けながらもスパイスがふんだんに使われていてビールとよく合う美味しいタコスだった。
アツアツのタコスをオリオンビールで流しながら私はステージに上がられた歌手の唄に聞き惚れた。
一曲目はバングルスの『エターナルフレーム』。
甘苦いカラメルソースを思わせる歌声が暑い夜風と絡み合い、南国の夏の夜らしさを醸し出していた。
後で話を聞いたところ、この夜のライブを最後に、産休のために音楽活動を停止するという。
残念と思うとともにこんなきれいな声のお母さんの歌をお腹の中で聴いて育ったら生まれる子は優しくていい子になるだろうなとほっそりとした体にそこだけアンバランスな大きくなだらかな曲線を描いた歌手さんのお腹を見て目を細めた。
不意に窓を見ると、そこからは潮騒の音が。
店内のスタッフの方々は皆、うらやましくなるくらいに楽しそうに働かれていて、しかも仕事の合間にリョウタさんとロミオさんは賄いを頬張りながら楽しく談笑していた。
それを見ていると、前日の仕事での澱みも苛立ちも不安も不満も何もかも溶かされてこのままずっとこうしていたいと思った。
私は風と潮騒の音に身をゆだねつつオリオンビールを空にした。そして……。
風呂を終えて着替えた清正さんが登場した時は嬉しさから、真夏の雪だるまさながらに顔が溶けそうになった。
鮮やかな青色のアロハシャツがよく似合っている清正さんをついついじっと見てしまい、清正さんから「おいちゃんの顔に何かついてる?」と問われてしまい、あたふたした。
時間はすでに21時半になっていた。せっかくの記念にとサインをおねだりした。
戻られた清正さんは風呂上りの一杯と称してかなり酒を飲み泥酔していて、「あーん、おいちゃん。ちっちゃい字書けないんだよ」と耳を疑うような独り言を言いつつサインしてくださった。
少しよれてはいたものの流麗な字であった。
さらに、私はずうずうしくもプチインタビューを敢行した。
私は少し深呼吸して清正さんに問うた。
「清正様、あの。質問いいですか?」
「いいよ」
清正さんは右手に煙草、左手にウィスキーを持ち、にこやかに私のぶしつけなインタビューに応じてくださった。
以下が清正さんへのインタビューである。清正さんにはただ感謝しかない。
「あのー、紫のメンバーの方って外国人の血を引いた方が多いですよね。チビさんしかり、城間さん兄弟しかり。清正様もやはり外国人の血を引いていらっしゃるのですか?」
「たしかに。俺も外人の血を引いているんだけど。どこ人かわからないの。俺ね、最初の親父の顔を知らないの。二番目の親父はアメリカ人なんだけれどね。その親父とは一緒に暮らしてたよ。時々、いなくなったときもあったけれどね。それ以外はずっと一緒だったよ。…その親父は数年前に死んじゃったんだけれどね」
「え……!」
その答えに息を飲んだ。数年後に野地秩嘉さん著『食物語フードストーリー(文庫版題名『皿の上の人生』)』(現在は絶版)を手に取り、私は清正さんの生い立ちを詳しく知ることになるものの、清正さんもまた基地の街の落とし子であることを初めて知ったのだ。
呆然としていると清正さんはおもむろにご自分のカーリーヘアをつまんだ。
ん?どうしたのですかと尋ねたところ、清正さんは茶目っ気混じりに答えられた。
「この髪ね、チビと一緒なんだけどね。これ、地毛なんだよ。伸ばしても短くしても一緒だから俺ね、三十二年間床屋に行かずに自分で切っているの」
これもまた、別の意味で呆然とした。そうか、地毛なのか……。しかし、すごいカーリーヘアだよなあ。
「清正様はギターをされる前はボーカルでデビューされていたそうですね。どんな曲をコピーしたのですか?」
すると、清正さんは目を丸くされた。
「よく知っているね。だいぶ昔のことだよ。最初はボーカルやっていたけれど半年ぐらいで辞めたんだよ。んで、ギターに変えて」
「そして、いろんなバンドを転々とされてコンディショングリーンに入って1975年に紫に入ったんですよね」
すると清正さんは肩をすくめられた。
「そう。でもね、実は紫入るの嫌だったんだよ」
清正さんの発言に思わず叫んでしまい、清正さんは苦笑しながら答えられた。
「俺ね。実は紫より先にコンディショングリーンのエディがやってたムゲンってバンドで先に本土デビューしたわけ。京都大学の西部講堂でライブやってね。でも、そのときには解散が決まっていて、どうしようかと思って。そのときはコンディショングリーンで一緒だったチビは紫に入っててね。んで、チビたちに誘われて入ったんだけれど俺は実は嫌だったの」
「…そうだったんですか。あららー」
めげずにわたしは質問を続けた。
「そして紫で本土上陸したわけなのですが。本土に来て思ったことは何ですか?」
清正さんは煙草をふかして答えた。
「そうだねえ。8・8出て、レコード会社が決まって、東京で練習したわけよ。でも、沖縄と本土のレベルって何もかもが違っててね。機材の質もそうだし…。こりゃいけないって思ったね」
わたしはこくこく頷いた。
「そしてみんなでがんばろうって言って沖縄で練習するんだけど、沖縄帰ったとたんだらけちゃって、それに沖縄の人っていいかげんな人が多いから、俺とチビ以外は練習はさぼる、遅刻する…。みんなマージャンやったり、海行ったりして。そして東京行ってレコーディングするわけだけれど曲が三曲しかできてなくてレコード会社の人にこってり絞られて、慌ててスタジオで曲を作ったわけ」
「……マジですか」
清正さんは話を続けた。
「そして何度かレコーディングするんだけれど、沖縄戻るとみんなだらけてね。俺とチビがいつも練習では待ちぼうけ食らっていたわけ。ほかのみんなは遅刻したり、さぼったりして。んで、チビが怒ってやめると言い出したわけ。そのときには俺も武道館でギター弾きながら“やめよっかなー”なんて思ってねー。んで、俺とジョージが慌ててチビの家に来て説得するんだけれどチビはもうやめると言い出したら聞かないし、コンディショングリーンに入ることが決まったの。そうしたら、ジョージもチビがやめるなら僕も辞めると言い出して、じゃあ俺も辞めると言って紫は解散したの」
「そうなんですか、あのー。メンバー1の遅刻魔は誰なのですか?」
清正さんは即答で答えられた。
「城間兄弟」と。
うーわー!……やっぱりな。俊雄さん、正男さん。双子そろって遅刻ですか。
すっかり頭を抱えつつ私は質問した。
「その後、比嘉清正&エネジーを結成されたのですね。どんなバンドなのですか?」
「そうだねえ。女の子をボーカルにしたんだよ。 そして彼女の声質に合わせた曲をカバーしたり、曲作りをして。そしてね、ちょうどそのとき、その女の子が失恋して、その心情をもとに一週間で曲を作ってピースフルに出たな。だって、ピースフルはどのバンドも三曲はオリジナルを入れることが原則だから」
い?一週間って。すごすぎですよ。あなた。
気を取り直して清正さんに細かい質問をしてみた。
「清正様はギターの弦はヘビーゲイジを愛用されているそうですが、その理由は?」
清正さんは再び煙草を取り出して一服し、少し考えてから答えられた。
「うん、今は使っていないけれどね。あの弦を使っていた理由はあれが一番太くてしっかりした音が出せて気に入っているから。でも今は手の力が弱くなったから普通の弦を使っているんだけれどね」
なるほど。だからあんなビブラートを効かせつつもしっかりした音が出せるのか。そう納得した。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、コザへ向かう時間になった。
私は記念にと清正様と写真をとった。
清正さんは満面の笑みを見せて写真に写ってくださった。
そんな私にも清正さんはにこやかに接してくださり、名刺を手渡し、今度来るときは連絡してと携帯の番号を教えてくださった。私は清正さんに何度もお辞儀してお礼を言った。
にもかかわらず、私は最後の最後でこんなぶしつけな質問をした。愚の極みである。
「清正様ー、最後に質問があります」
「ん?」
「煙草を減らすことと妾を三人持つこと、その夢はかないましたか?」
ああ、バカここに際まれり。どうしてこんな質問をするのか。
にも関わらず、清正さんは煙草をふかして考えこまれた。
「…煙草は減ってないねえ。もうひとつは…」
数秒の沈黙の後に清正さんは口を開かれた。
「内緒☆」と。
茶目っ気たっぷりにウィンクまでして。
すっかりはぐらかされてぽかーんとしていると「ほら、タクシーがきたよ。早くしないとコザで遊ぶ時間がなくなっちゃうよ」と清正さんから背をやんわり押された。
私は清正さんに握手して言った。
「ありがとう、そしてどうかお元気で。かなさんどー」
すると清正さんは照れたように微笑まれ、手を振って下さった。
ふっと目を細め、優しく微笑まれる清正さん。
その笑顔は樽の中で熟成されたウィスキーのように深みのある魅力的なものだった。
名残惜しさに遠ざかるココナッツムーンを振り返りながら恩納村を後にし、運転手さんにコザのゲート通りへと行き先を告げた。
タクシーの中で私は大気圏まで突入しそうなほどに舞い上がり、幸せすぎて気が遠くなりそうだった。
その4時間後にコザにて空気の読めなさから引き起こした不注意によって人生屈指の針のむしろ状態になるのだが、それはまた別の話。
(オキナワンロックドリフターvol.10に続く)
文責・コサイミキ
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