シュガーマン 奇跡に愛された男を観て

映画の予告で見て以来、気になっていたこの映画。
思いのほか、冒頭は地味すぎて、シュガーマンことシクスト・ロドリゲスを探す男たちの熱意とそれまでの経緯の簡潔かつ丁寧な描写がなかったら途中で見るのをやめていたかもしれない。
だが、見ているうちに、そして、映画に挿入されるロドリゲスのざらついた愚直なだみ声で淡々と唄われる歌の数々にじんわりと魅入られ、いつの間にか映画の中でロドリゲスの足跡を追う二人のファン、ストリダムとシーガーマンのの熱意と頓挫しかけるたびに感じる徒労とわずかな希望を共有してしまう。
だからこそ、ロドリゲスの娘による有力な情報に思わず、感嘆の声をあげ、そして、ロドリゲスが生まれ育ったデトロイトを離れることなく、ビル解体などの肉体労働に従事しながらも家族を養い、大学で哲学を専攻し、学位をとり、子どもたちにいいものをと図書館や博物館などに連れて行き、その傍ら、社会や腐敗した世への憤りや抗議を忘れず、市長や市会議員の選挙に8回も立候補するバイタリティーにふっと目を細める。
実際、40年間住んでいるという小さなアパートで日差しを浴びながら窓のそばに佇むロドリゲスの現在の姿を見たときは、それまで映画を見るまで知らなかったミュージシャンだというのに、なぜか嬉しさが溢れるのと同時に、40年前のアルバムジャケットと変わらない風貌と、サングラス越しの澄んだ瞳の静謐さと美しさに涙してしまった。
終盤、偶然とアパルトヘイト時の南アフリカの情報統制の副産物とはいえ、爆発的人気で歓待された南アフリカでのコンサートでのロドリゲスのエピソードも秀逸かつ、ロドリゲスの地に足の着いた生き方を現している。掴もうとすれば大きなチャンスだってたやすく掴めただろうに、等身大の幸せを選ぶ彼にため息ともったいないなあという歯がゆさを感じた。
しかし、ラストシーンでそんな気持ちを少し反省してしまう。どこまでも愚直かつそれでいて、吟遊詩人のような浮世離れしていた雰囲気をかもし出し、数十年遅れながらも奇跡に愛されてたにも係らず、スーツ姿で仕事に向かい、肉体労働に勤しむロドリゲスのまっすぐな歩き方は彼の人生の象徴のように思えたのだ。
彼の歌のように地味ではあるものの、余韻とそして心が紙やすりで撫ぜられたようにひりひりする疼くそんな映画だった。

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