オキナワンロックドリフターvol.66

書店で購入した『皿の上の人生』は、北は北海道、南は沖縄までの繁盛店ないし名店の店主の人生をピックアップしたルポルタージュだ。
食い物に関して目がない私。紹介された店はどれも名前を聞いたことのある店ばかりで、特に『中津川のメディチ家』という章で紹介された岐阜は中津川にある栗きんとんの老舗すやはこのルポを読んでから栗きんとんや栗きんつばのお取り寄せを検討したくらいだ。
時には店主の数奇な運命に息を飲み、時には店主のこだわりが光る料理や食べ物を想像して腹の虫を鳴らしながらページを進めた。
巻末はココナッツムーンと清正さんをピックアップした『伝説のギタリスト』である。私はこのルポで清正さんの生い立ちを知った。清正さんは本当の父親の顔を知らない。清正さんはお母様に尋ねることができなかったそうだ。日に焼けた肌なのでラテンアメリカの血を引いてるとも、ネイティブアメリカンの血を引いてるとも雑誌媒体で書かれた清正さん。自身の血の本流について幾度思いを馳せたのだろうかと考えてしまった。清正さんのお母様は清正さんが小学生の頃にアメリカ兵と再婚され、それにつれて基地の中の学校に転校されたそうだ。その翌月、前の学校である宮森小学校に米軍属のジェット戦闘機が墜落し、校舎が全壊し、17名の児童が亡くなった。もし、清正さんのお母様が再婚されていなかったら、もしかしたら……。清正さんのあの潮の香りのするギターの音色は聴けなかったかもしれなかったのだ。
清正さんのお義父様となったアメリカ兵の話は清正さん自身ないしイハさんから幾度か聞いた。特にイハさんから聞いた、血は繋がっていないものの、家に飾られた紫のパネルやポスターの中の清正さんを指差し、“He's my son ”と誇らしげに語る病床に伏されたお義父様の話は少し切なくなった。何故ならこのルポの中では幼い清正さんがお義父様に馴染めずになるべく顔を合わせないように暮らしていたことが描かれていたからだ。
そんな複雑な基地の街の落とし子な清正さんに転機が訪れたのはラジオで聴いたジミ・ヘンドリクスの曲だった。衝撃を受けた清正さんはレコードショップでジミ・ヘンのレコードを盗み、繰り返し繰り返し憑依されたように聴いたという。そして清正さんはギターを弾くことに目覚めた。
バンドを結成し、猛練習し、Aサインバーのステージで演奏して荒稼ぎしたのははじめのうちだけ。既に喜屋武マリーの青春、オキナワンシャウト、ロックとコザにて学習済みだったが、バンドマンたちの羽振りの良さを知ったヤクザたちに絡まれ、搾取されたという。
このルポで特筆すべきはコザ暴動の後のコザと沖縄の人の様子が描かれていることだ。ますます街の空気はピリピリと張り詰め、アメリカ人の沖縄の人たちへの差別はなくならず、閉塞感と鬱屈だけが募ったという。さらに、恥をかかされた黒人兵が誤認でクラブのボーイをリンチし、そのボーイが後遺症が残る程の大怪我をする事件が起きたという。清正さんとバンドメンバーたちはその黒人兵を殺すつもりで追跡し、発見した。しかし、殺せなかった。すんでのところで躊躇し、何度も黒人兵を足蹴にすることで溜飲を下げたそうだ。もし、黒人兵襲撃に『成功』していたら清正さんはどうなっていたんだろうと何度も想像した。しかし、想像する度にその先のどす黒い、ありえたはずの未来の恐ろしさに震え、見えない力が清正さん達を引き留めたことに心から感謝した。
そして愚直なまでに音を探求する清正さんのエピソードが綴られていた。ココナッツムーンに来店し、リナママさんから紫をやめた後、生活が逼迫してもギターに打ち込む清正さんの話を何度か聞いていた。その話を聞き、苦労されたリナママさんには申し訳ないが清正さんにギタリストという道標を与えたジミ・ヘンは偉大だなあとしみじみ思った。
そして、読み終わった後に感慨無量から深いため息をつき、清正さんのギターをいつか生で聴けたらと強く思った。
直ぐに、清正さんに電話し、ココナッツムーン通信に『皿の上の人生』を紹介してもいいかと尋ねてみた。清正さんは、「少し時系列がシャッフルされているところもあるけれどね、いいよ」と即決された。
チビさん、ジョージさんはロックとコザを筆頭とした様々な媒体、城間兄弟は砂守勝巳氏著『オキナワンシャウト(後に沖縄シャウトと改題)』にてその生い立ちが綴られているが、清正さんの生い立ちもまた「知られざる伝説」だ。
ココナッツムーン通信に、『皿の上の人生』の紹介文を書きながら、うっすらと基地の街の落とし子であるミュージシャンたちについての文を書きたいなと思った。デリケートな題材だから生半可なものを書くと大変なことになる。仮に中途半端なものを出して昨年の素浪人氏のような人の目に止まり、非難されたらひとたまりもない。でも、なんらかの形で綴りたかった。でもどうやって?
書きたいという欲求と、どんな形にすべきかという悩みが混在し、私の心は揺れた。
もっと表現力を、もっと語彙力を。たまの休みに図書館に行ったり、アマゾンマーケットプレイスで欲しかった本を買い、読んでインプットするものの、アウトプットできないもどかしさに泣きたかった。
学びたいという私の渇望は日増しに増えていった。
悩もうが焦ろうが、時はノロノロながらも着実に過ぎていき、マサコさんのブログ、さっちゃんからの近況報告、以前よりは少なくなったものの沖縄好きな方々のサイトやブログを通してコザの街やオキナワンロックについて知っていった。
この年はマリーさんが活動の場を本格的に沖縄に移し、マリーさん復活の報があちこちから聞こえてきた。1月にはライブミュージックバー“Asian Rose”を開店、女優の池波志乃さんのサポートにより、公式サイトを開設したりとマリーというロックの女王再臨に沖縄ロック好きな方々が喝采をあげていた。
さっちゃんが嬉しそうにメールや電話でマリーさんの店に来店したり、マリーさんがRBCがやっていたウェブラジオ内の番組にてさっちゃんが飛び入りゲスト出演した話をする度に自分のことのように嬉しくなる反面、ブログで人気を博しつつあるとあるコザリピーターの方やさっちゃんのようにまんべんなく人付き合いができない自分が嫌になったのもこの頃だった。
うまくできないもどかしさ、不甲斐なさ、今の自分の立ち位置への不安、周りの同年代へのざらついた感情からだろうか、夏が近づく頃に過呼吸が再発し、仕事に差し支えないようにするためにまた頓服のお世話になり、休みの日は床に寝そべり、胎児のように体を丸めていることが増えた。

(オキナワンロックドリフターvol.67へ続く……)

(文責・コサイミキ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?