オキナワンロックドリフターvol.102

15日にコザにてかなりのダメージを受けた私は、元気をもらおうと17日にカリミさんに会おうとするも、カリミさんの体調不良で会うのは20日に延期になり、落胆した。
仕方なく、栄町市場のねーねーたちにカリミさんへの伝言とお土産を託した。
そして20日。その日は夜に鼓響館でチビさんと久々の対面をするので時間は限られている。

朝早く宿を出て出発するも道に迷って引き返して30分のロス。

途中、食料品店があったので、そこで朝昼兼用の御飯を買ってバスで那覇まで。途中で用事を思い出してコザに行き、買い物を済ませると荷物をコザクラ荘に置いた。そして、またバスに乗り、那覇に着き、地図をたどりながら、スティービーさんのサポートメンバーであるグッシーさんの店にて紅芋アップルパイを購入してカリミさんのお土産にすることにした。その後、よせばいいのに徒歩で栄町市場まで行こうとしてさらに道に迷い、タクシーを使ってどうにかこうにか、市場までたどり着いた。
こまごまとした路地は懐かしくも沖縄らしい雰囲気に満ちている。
それからは一度きた道だから楽勝だ。入り組んだ路地を抜け、お茶屋さんで再びお茶を買い、目的地の銀平薬品へ。
店の中からかすかに10行の曲が流れた。カリミさんがいる!
タイダイのTシャツに白衣を羽織ったカリミさんは初対面とは思えないほど親しみを感じさせる笑顔をしていた。

「まいきー!」

カリミさんに連れられるがままにちゃぶ台とソファーのある場所へ。なんだか、気さくな先輩の家にお邪魔しているような気分になった。
ちゃぶ台にお茶とお菓子、他愛のない話に花を咲かせるそんなひと時。
カリミさんを前にして、冷たいルイボスティー、ちんすこうに黒糖、手土産にしたミルクケーキ、天草サブレ、紅芋アップルパイを飲み食いしつつ繰り広げる昼下がりのおしゃべりはうれしくもなんだかくすぐったかった。

カリミさんは、話す声も歌うようだ。
この人も唄うために生まれた人なのだ。澄んだメゾソプラノの声はそれを証明している。伸びやかですくすくとした声はカリミさんの心のようだ。

カリミさんとはかなりディープな話をした。
80年代組、ナハンチュから見たオキナワンロックはコザの80年代組とはまた違う視点だ。
詳しくは書かないが、長年思っていた那覇のロッカーとコザのロッカーの空気の違い等、「なぜ?なに?」がようやく判った。喜ぶべきかそれとも……。
さらにカリミさんから城間兄弟と連絡がとれたきっかけを教えてとせがまれたので、私は有り体に話した。
すると、「うわっ!私ならありえない。絶対断る」と顔をしかめられた。

やはりそうだろうなと項垂れていたら、カリミさんは「トシオとマサオだから会ってくれたのかもね。あのふたりは寂しがりやだし、人懐っこいとこあるから」とフォローされた。確かにそうかもしれないなと思い、私はルイボスティーを飲み干した。

そして、なぜカリミさんが10行をあのメンバーでしかやらない理由がわかった。
その結果があの光と闇の対比により生まれた美しい曲たちなのだろう。
カリミさんやチーコさんといい、最近の80年代組の活躍は目覚しい。後進にまわる人もいれば、伸びやかに自分の音楽の芽を伸ばす人もいる。それは失った何かを取り戻すように。

「世代交代だねえ」と、私は心の奥底でそう呟いた。

帰る際に、カリミさんから黒糖、甘栗、お菓子、さらに栄養ドリンクを戴いた。至れり尽くせりで申し訳ない。今度は那覇に遠征しようかな。そう思える1日になった。
握ったカリミさんの手は日向の匂いと温もりがした。
帰りのバスでもらったドリンクを飲んで気力を上げる。よし!これで、チビさんに会っても大丈夫だ。
しかし、ルイボス茶がぶ飲みが災いして、強烈な生理的現象を催し、慌てて普天間へ降りる。
せっかくだからもう一度普天間天満宮へお参りした。
願うことは私自身、家族、友人達、そして沖縄のミュージシャンのこと。
入れた賽銭にありったけの願いを込めて。
お参りが済んで、振り返ると以前あった24時間喫茶が潰れてその跡地が抜け殻のようになっていることに気づいた。
店の屋号と同じ映画スターのシルエットが色あせた壁にくっきり残り、それがわびしさを強調していた。

「ここもか……」
それを見たら祈る手にますます力が入った。私は今はなき24時間喫茶店の跡地に一礼すると、再びバスに乗った。
夜からは平良川の鼓響館でチビさんと再会だ。正直、緊張し、変な汗が出た。
オキナワンロックドリフターをご覧の読者様は既にお分かりだろうが、2004年から、私はチビさんサイドと距離を置いていたからだ。ちいさな疑問や苛立ちが積もり積もってそうなってしまったのだ。
今思うと私の狭量からくる誤解もあったのだが私は色々嫌気がさし、疎遠になってしまったのである。

それから、4年後である2008年。10日間の沖縄旅行というめったにないチャンスなのだから思い切って鼓響館に行こうと画策。わだかまりを消すいいチャンスかもしれないと思い、旅行前にチビさん公式サイトにメールした。しかし、その時はマネージャーさんからチビさんは出張だからと断られた。が、事態は変わった。3月19日にタフ&ココナッツで仮眠をとっていた私に電話が入った。着信はチビさんのマネージャーさんからだった。チビさんの出張の期日が早くなり、19日の夜に本島に帰ってくるというのだ。しかし、19日はココナッツムーンにて清正さんと会うのを優先した。結局、3月20日の夜、鼓響館にて4年ぶりにチビさんに再会することとなった。
朝からうるま、コザ、那覇と移動して栄町市場にてカリミさんと会い、那覇からうるま市安慶名までをバスで移動し、安慶名から通りかかったタクシーを拾って乗ったのだがそれがとんだ大ハズレだった。
沖縄のロックが好きというと、その運転手は下品な笑いを浮かべた。

「あんたパーキーか」

観光客にいきなりそういうことを言える神経がわからない。私はその運転手を激しく睨み付けた。すると運転手はばつが悪そうに黙って運転したのだがやたら遠回りされ、結局相場よりも高いタクシー代を払わされた。覚えてタクシー会社に連絡しようかと名札を携帯で撮ろうとしたら突き飛ばされ、タクシーは凄い早さで去っていった。今まで乗ったタクシーの中ではダントツに最悪のタクシー運転手だった。
さらに1日動き回ったせいか、空腹に耐えかねてタフさんの相方のミユさんの店で食事を取ることにした。シャワーを浴び、ミユさんの店へ。シャワーを浴び、体を拭いたら腕が痛かった。突き飛ばされ、腕を擦りむいたからだ。私はあのタクシー運転手の顔を思い出して歯軋りした。
お酒は鼓響館で呑もうと思ったのでウーロン茶で喉を開き、ボイルソーセージとピクルスを夕飯代わりにし、タフさんの車に乗せてもらっていざ鼓響館へ出発。
走り去るタフさんの車に手を振り、鼓響館に入る。バーカウンターにはマネージャーさんがいた。

その髪は以前のさらさらなストレートではなく、カーリーヘアになっていた。
「チビさんの影響ですか」と問うと「こら!」と思い切り頭をはたかれた。私たちは笑いあった。
そして、久米島の久米仙のお湯割りをオーダーし、チビさんが来るまでにマネージャーさんと長い話をした。その話から、気づかなかった、いや、気づいても知ろうともしなかった、マネージャーさん視点でのチビさんの痛みと苦心を知った。相変わらず多面的に物事を見るのが苦手な私だが、チビさんの側にいる人からの話はかなり一理あり、頷けるものばかりだった。
マネージャーさんの話を聞きながら、全ての人それぞれに得たものと失うものがあることを知った。
淘汰されたものも、淘汰したものも。私だけでも、城間さんだけでも、清正さんだけでもない。誰もがそれぞれに。
そして、チビさんの傍らにマネージャーさんがいてよかったと心から思った。

チビさんが来店したのは午後10時過ぎだった。
カーリーヘアに変わらないカウボーイのような出で立ち、大きな体躯。
それらは変わってないのに笑顔が大きく変わっていた。満面の笑みが消え、チビさんは片頬だけ歪めて寂しく笑っていた。はしばみ色の瞳もくすんでいる。何があったのか。それくらいチビさんは疲れきった顔をしていた。
挨拶以外でかける言葉が見つからず、「お久しぶりです。皆さんお元気ですよ」とアホなことを言ってしまった。
チビさんは苦笑して「判っているよ。ここは沖縄だから」と返された。
なんか余計に墓穴を掘ってしまった。
しかし、チビさんとマネージャーさんは私を歓待してくれ、さらに、見たことがなかった紫再結成ドキュメントのアンコール版を見せてくださった。
貴重な映像にはしゃぐ私をチビさんとマネージャーさんはにこにこ見ていた。
マネージャーさんは、「やっぱりねー。チビと話してたんだよ。これ、ミキちゃん見たがるだろうなって」とおっしゃると、チビさんも「この映像見たことないでしょ?10月の再結成ドキュメントは見てもこのアンコール放送は見た人少ないだろうからね」とウィンクされた。
ほんのわずかとはいえ繋がっていた音の絆の記録をブラウン管越しに目に焼き付けた。その際に私は祈るように手を組んでいた。
そんな私をチビさんとマネージャーさんはじっと見ていた。
2人は最初から気づいていたのだろう。あのころから私の心が紫のメンバーの誰を追っていたのかも。

チビさんのライブが始まった。ほぼ貸しきり状態の贅沢な時間。
しかし、チビさんはかなりお疲れのようだ。ご無理はしないでというとチビさんはこう答えた。
「プロにはね、そんなことは関係ないの。それにね、プロにはそんな甘えは許されないよ。だから、ちゃんと聴いて」
そのときのチビさんの顔は4年前のチビさんの顔になっていた。
傲慢なまでにゆるぎない自信、太鼓の王様と比喩すべきその振る舞い。
チビさんらしいなと思った。良くも悪くも。

曲順は無理を言ってもらい、最初にチビさんに出会った頃に聴いたライブのセットリストとほぼ同じものにしていただいた。5年間の変化を知りたいからだ。

さて、演奏の感想を述べよう。
そのときのチビさんの演奏は一言で言うと雷神が降り立ったかのようだった。そうとしか比喩できない迫力だった。声量は5年前と違い、かなり衰えはあったが、唄うチビさんの横顔は獅子さながらに勇ましかった。
思った。この人はそのやり方で邁進していくのだろうと。いままでもそしてこれからも。

結局、その日の来客は私だけだったが、チビさんとマネージャーさんは私を心から歓待してくださった。 
帰りにチビさんに握手を求められたので、私はチビさんと握手した。その際に感謝と俊雄さんとの一件のよるべない寂しさからなのだろう。無意識にチビさんにハグをしていた。
チビさんは私の背中をそっと擦ってくださった。
そして、ぽつんと呟やかれた。

「君は、最初からあいつらしか見ていなかったよね」と。

その目は少し悲しそうで罪悪感に苛まれた。

帰りはチビさんのマネージャーさんが送ってくださった。その際に、マネーペニー女史の近況を教えてくださった。彼女は経済的な理由とオキナワンロックへの失意から沖縄を去り、本土へ帰ったという。
2004年の夏に喧嘩別れしたマネーペニー女史だったが、彼女なりに真剣にオキナワンロックを愛していたのはわかった。けれど、そんな彼女すら沖縄を去っていったことに苦い気持ちになった。
そして、マネージャーさんはチビさんのマネージャーという仕事を選んだきっかけを教えていただいた。その時のマネージャーさんの瞳の輝きは忘れない。私が城間兄弟との触れ合いで得た宝物のような想い出があるようにマネージャーさんにもかけがえのない想い出がある。そのかけらを教えてくれたマネージャーさんに感謝し、タフ&ココナッツへ降りると、去るマネージャーさんの車を小さくなるまで見送り、手を振った。

色々思うことはあったものの、鼓響館へ行き、チビさんに会ってよかった。何故なら鼓響館は2008年の秋には閉業してしまい、最初で最後の鼓響館来訪となったからだ。

(オキナワンロックドリフターvol.103へ続く……)
(文責・コサイミキ)



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