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真実に近い嘘

 ある晴れた午後に、一通の手紙が舞い込んだ。差出人は女子校時代の同級生で、卒業してから七年近く、連絡を取ったこともない。でも、明るい空色の封筒を見て、なぜだかすぐに彼女だとわかった。
 何だろうと思った。今頃何の手紙なのかと。ドキドキした。少し不安だった。思い当たる節のない手紙は、いつでもそんなものだけど、特別それが強いと感じた。むずがゆい。照れ臭い。高校時代に戻ったような、そんな気持ちで手紙を開けた。
 きちんと折られた真っ白い便箋を開くと、懐かしい几帳面な文字が目に飛び込んできた。
 お元気ですかという定型文から始まって、七年も音沙汰がなかった事など、感じさせない彼女の文面。高校時代そのままに、親しく、少し改まって。
(何をしていますか)
(会いたいです)
 口元に浮かんでくる笑みが気恥ずかしい。懐かしい。温かい。紺の制服を着た彼女の笑顔が頭の中によみがえってくる。
 思い出話、ちょっとの自慢、今の私への疑問とか、そんなふうに手紙は続き、最後に小さく、こんど結婚します、と書かれて手紙は終わった。なにもかもが自然で、さりげなく、時の流れも感じさせない。昔のままの彼女が、静かに今の自分を語る、そんな感じの手紙だった。
 三回くらい読み返してから、そっと便箋を折って、きちんと封筒におさめた。丁寧に、手紙が、彼女から届いたままの形に、戻るように。それから、大切に、大切に本に挟んで鞄に入れた。
 これから大学院に行く。私はまだ学生だったから、もうとっくに社会人になっている彼女の言葉が、やけに鮮やかに頭に残る。高校時代のままのような文面とは裏腹に、彼女の言葉には不思議と現実味があった。
 家を出て、駅へと歩く。午後の柔らかい光が町を包んでいるのに気づく。ゆっくりゆっくりと歩いて、昼過ぎの駅へと向かう。

 ガランとしたホ-ムに立って、青い空を見上げた。風に流されていく雲を見ながら、頭の中で、彼女の言葉を思い返した。
(やっと、夢がかないました)
(お給料は、やすいの)
(でも、幸せです)
(ずっとあこがれていた仕事だから)
(やってみたいと言ってたの、覚えてる?)
「……覚えてる」
 小さく、声に出して言ってみた。
 彼女の言葉はさりげなくて、でもしっかりと重い。そんなふうに感じた。
 電車がすべりこんできて、扉が開き、人のいない車両に乗った。広々と空いたシ-トの真ん中に腰掛けて、窓から見える景色を眺めた。ガタン、ガタン、と電車は揺れる。
 明るい空を見上げながら、彼女のことを思い返した。
 紺色の制服が似合う子だった。肩ぐらいまでの真っ直ぐな髪で、動くたびにさらさらと揺れていた。周りの子たちより少し大人びていて、はにかんだように笑う。でも親しい友だちと話すときには、意外に朗らかだったっけ。
 彼女とは、高校の三年間、ずっと同じクラスだったけれど、特別に親しいという訳ではなかった。かといって、親しくなかった訳でもない。言葉を交わさない日はないけれど、卒業してしまえば、たやすく離れて行くような、そんな感じの友人だった。互いに親しい友もいて、互いに違う部活で過ごした。
 それでも彼女を忘れたことがない。なぜか、忘れたことがない。
 忘れられない、理由があるかもしれない、とふと思った。決して大ごとではないけれど、細やかで、でも確かな彼女の記憶が、あったから。
 ずっと頭のどこかに残っている、一瞬の出来事。その、繰り返し。
 高3の1学期。教室の、扉のすぐそばに、彼女の席があった。チャイムが鳴って席について、何の気なしに扉のほうを見ると、こちらを見ていた彼女と目が合った。彼女が急いで視線を外す。私は驚いて彼女を見る。教科書に目を落とす彼女の横顔が、意識して少し緊張する。そんな彼女を私が見る。そのときは、騒がしい周りの音が静まり返ったような気がした。教師がやってくるまでのほんの短い間の、たったそれだけのことだったけれど。それから、形を変えて、立場を変えて、そういうことが、幾度もあった。そんな、印象的なときを、私たちは共有していた。
 一つ思い出せば、次々と溢れてくる記憶。
 彼女を最初に認識したのは、そう、高校に入って初めての、クラスでの自己紹介の挨拶だ。ピアノを弾きます、と言った彼女の髪がやけにさらさらで、ずいぶんきれいな髪の子だなと思った。でもそれだけで、特に親しくはならなかった。最初は、気にも止めていなかった。
 初めて言葉を交わしたのはいつだっただろう。覚えてもいない。クラス替えのたび、また彼女と同じだと思った。そんなことを互いに話したのかもしれない。
 でも、いつからか、なんとなく存在を、意識して、いたと思う。
 話すことなどなくても、朝、教室に彼女がいるのを確認すると、なぜかほっとした。体育や、音楽や、そんな特別の授業のときは、いつも何気なく彼女を捜した。そのくせ彼女が近くにいても、話しかけようとは思わなかった。
 彼女も同じ。みんなで騒いでいるときや、必要なとき以外は、私に話しかけてこなかった。
 それでも、体育祭や文化祭や、みんなが騒いでいるときは、よく二人で一緒にいた。黙ったまま、当然のことみたいに、二人で、はしゃぐみんなを見ていた。二人だけ、別の空間にいるみたいに。
 みんなが、私たちのことを「大人っぽい」と一括りにするような、私たちはそんな友人同士だった。

 電車が傾ぐ。電車は急なカ-ブを曲がる。車内に射していた光や影が、サアアアッと一斉に動いていく。そんなものをぼんやりと眺めた。陽光が差し込み、車内は普段よりも暖かい。明るい記憶に包まれたまま、ゆっくりと目を閉じて、いつのまにか眠りに落ちた。
 そうして、夢を、見た。
 私は、道を歩いている。大学院へ向かう、賑やかな大通りだ。いつもの本屋。通い慣れた喫茶店。向こうから、知り合いが歩いてくる。大学院の仲間。私たちは立ち話を始める。しばらくして、彼女が歩いてきた。肩までの髪の毛、でも制服じゃない。私を見て、怒ったように行ってしまう。驚いて、私はあわてて後を追う。仲間もそっちのけにして、急いで彼女の後を追う。ひとつめの信号を右に曲がった所で追いついた。私を軽く睨んで、忙しいって言ってたくせに、と言う。言ってないよ、と私が答える。彼女は顔をしかめたままだ。私は訳がわからない。どうして彼女が怒っているのか。一瞬の沈黙。突然、彼女が笑い出す。びっくりする私に、冗談よ、と言う。急に暇ができたから、会いにきたのと彼女は続けた。私は、なんだ、と息をつく。追ってくると思ってた、と朗らかに彼女は言った。驚かさないでよ、と言うと、彼女は笑いだし、つられて私も笑ってしまう。そのまま顔を見合わせて、二人で声を上げて笑った。それから、二人で並んで歩きだした。いつもの通りを、いつものように笑い合い、言葉を交わし、楽しくて楽しくて仕方ない、そんなふうに二人で歩いた。

 ガクン、と電車がスピ-ドを落とす。
 その瞬間、目が覚めて、私は彼女が好きだったんだと気づいた。
 こんなにも、私は彼女が好きだったんだ。それに、突然気がついた。何気ない日常を、二人で一緒に過ごすことが、痛いほど嬉しいと思うほど、そういうことを夢見るほどに。
 驚いて、戸惑って、どうしようもなくて窓の外を見る。
 いろいろなことが突然わかった。あの時代、私は、彼女と、恋をしていた。今頃になって、やっと気づいた。
 女ばかりの学校で、みんな恋などしたことがなかった。理想や夢物語や、そんな話をしては笑っていた。恋とか、愛とか、社会とか、そんなものは、まだ私たちには関係がなかった。そう思っていた。
 でも、私は、彼女と、恋をしていたんだ。
 もしも、七年前に気づいていれば、彼女と、今見た夢みたいな時間を、共有していたのだろうか。二人で当たり前のように、「いつもの道」を歩いていたのだろうか。
 そんなことを、不意に思った。心臓が締め付けられる。ただ何かを思うことが、胸にこれほどの痛みを呼ぶことを、初めて知った。
 カ-ブを曲がりながら、電車がビルの谷間を擦り抜ける。太陽がビルの窓ガラスに反射して、一瞬車内にキラリと閃光が走った。強い光に目が眩む。思わず目を閉じる。
 目を開けると彼女がいた。明るい空色の服を着ている。
『だめ』
 大きな瞳で真っすぐに私を見る。
『それも嘘なの』
「え?」
 すぐに光は消え、彼女も消えた。
 ああ、と悟った。手紙はそれを告げるため、と。鼓動が激しくなる。胸が、痛い。

 深呼吸をして、静かに、天井を見上げた。
 3年間、同じクラスの同級生。仲が良くも悪くもないクラスメイト。「大人っぽい」カテゴリーの二人。だから、みんながはしゃぐときには、二人だけで過ごした。互いに、なぜか少しだけ特別な存在。すべて本当のこと。でも実は、あれは恋だった。それさえも、真実。
 ただ、核心だけが、嘘だ。
 本当は、私たちは、気づいていたんだ。あれが恋だということに。気づいていたのに、気づいていないふりをした。私たちは、互いの恋に嘘をついた共犯者だ。私たちは、終わることを怖がって、始めることすらしなかった。始まらなければ、終わらない。そう、思っていた。先の見えない恋だったから。
 どちらかが、手を伸ばせばよかった。それだけで、簡単に壁は崩れた。どちらも、それを知っていたのに。
 堰を切ったように溢れ出す後悔と、彼女の手紙の入った鞄とが、ぶつかり合って、熱いほど痛い。
 あの頃、勇気を出して、彼女に手を伸ばせばよかった。あの時代ならば、きっとそれが許された。でも私には、私たちには、その勇気がなかった。どうすればいいのかわからずに、だから、ただ気づかないふりをした。
 恋人みたいに、いつもの道を並んで歩く。喧嘩をする。楽しくて楽しくてたまらない、そんなふうに一緒に笑いあう。経験したこともない場面が、やけに生々しく夢に蘇ったのは、あれが過去の記憶だからだ。あれは、過去に二人で密かに夢見た夢だったからだ。

 アナウンスが終着駅の名前を告げて、電車は止まる。はっとして窓の外を見た。見慣れた駅のホ-ムが写る。現実が急に戻ってくる。
 少しして扉が開いた。ゆっくりと立ち上がる、電車を降りる。目の前を、高校生が何人か、笑いながら行き過ぎた。
(こんど結婚します)
 おそらくは、これが彼女の別れの言葉。 
 冗談めかした文末の言葉。
(なぜか少し、あなたに、似ているの)
 おそらくは、ずっと私を思い続けた彼女の、密やかな告白。
 彼女と離れてから七年間、恋をしなかったのは、私の真実。
 始まらなかった恋だっていつかは終わる。
 それが今だと、認めたくはなかった。

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