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卵焼き、焦げた

私は体力がなく、キャパシティが非常に小さい。何でも器用にこなせるタイプでもない。そのくせプライドが高く、偏った責任感の強さゆえに、自分がちゃんとやらなきゃ!完璧にやらなきゃ!という使命感にいつも駆られていた。そんなアンバランスな中で過ごしていれば、当然体力が先に尽き、結果は中途半端。どうしてちゃんと出来ないんだ、どうしてもっと出来ないんだ、と完璧じゃない自分が許せず、自己嫌悪に陥ることが度々あった。思い通りに行かないことへのストレスと余裕のなさから、夫に八つ当たりしてしまうこともあった。
こんなの絶っっっっっっ対にだめだ。自分の心も大切な人の心も傷付ける一方で、何も生まない。何も得られない。もうやめにしたい。変わらなきゃいけない。2023年、『完璧をやめる』を目標にした。

完璧に成し遂げたいと思うものの中で特に大きな割合を占めていたのが、料理だった。私の中における料理の完璧とは、主食と主菜は当然のこと、副菜は三品以上、汁物もマスト。副菜はそれぞれ同じような味付けにならないように。汁物は主食や主菜にあわせて味噌、コンソメ、中華など種類を変える。全体的な彩りや、さっぱりこってりのバランス。健康のために発酵食品や大豆製品を積極的に取り入れる。同じものばかりだと飽きるので新しいメニューやレシピを定期的に調べる等々。仕事もして他の家事もして自分の時間も作りながらこれらを全てクリアするというのは、あまりにも無理があった。いつの間にか料理が楽しいものではなくなり、義務感が生まれ、疲れるものになっていた。

それからは、冷凍食品やレトルト商品に頼りまくる(ちゃんと美味しいし本当に便利!)、白米にお肉ドーンでいい(夫はむしろ喜ぶ!)、野菜がなくてもいい(一回野菜抜きにしたくらいで何も変わらん!)、無理なときはやらなくていい(頑張れるときだけ頑張ればいい!)と、常に自分に言い聞かせながら生活した。
染み付いた考え方を変えるというのは簡単なことではなかった。頭では分かっていても、何度言い聞かせてみても、ちゃんと出来ない自分が受け入れられず、苦しかった。情けなくて悔しくて落ち込んで、たくさん泣いた。でもその度に大丈夫大丈夫と自分を慰めた。少しずつ、少しずつ、許そうと努力した。

作ったご飯の写真を撮るというのもやめることにした。いざ写真を撮ろうとすると、献立の組み合わせが…とか食材の色合いが…とかお皿の位置が…とかいちいち気になってしまい、あれこれ考えたり直したりする必要があった。テキトーな写真がどうしても撮れない。それでは結局完璧主義の思考から離れられないし、最近は目的がご飯を作ることから写真を撮ることにすり替わってしまっていたなと反省した。記録のための料理ではなく、生活のための料理と改めて向き合いたくて、思いきって写真を撮ること自体をやめた。

びっくりするほど楽になった。まさに肩の荷が下りたという感じがした。写真を撮らなくていいので、そのためにあえて見た目を綺麗にする必要はない。タッパーに入った作り置きのおかずをそのまま食卓に出すし、お皿のふちに飛んだソースもティッシュで拭わないし、オムライスの卵がグチャっとなっていても別にオッケー。自分を責めない。罪悪感を持たない。余裕がないときは外食やお惣菜で済ませて、ほどほどに力を抜くことを意識して生活をした。やっと、少しだけ気楽な暮らしが出来るようになった。とは言え、完璧を完璧にやめるというのは不可能で、ヤツは時々片鱗をチラリと見せてくる。つい気合いのスイッチが入ってしまって、気付いたらクタクタに疲れているということもある。たまにはそういうこともある。

そんな生活を続けて一年以上が経った、今日。
久しぶりにお弁当の写真を撮ってみた。卵焼き、焦げた。でもうれしかった。

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