見出し画像

結婚とは、のわたしの答え

はじめに

人生には忘れたくない出来事というのがいくつかある。どこかに書き記しておかなければ、とずっと思っていた。でも本当に書くべきなのか、書いてもいいものかという葛藤と、思い返すことも言葉に変換することもものすごくパワーが必要で、途中まで書いてはやめて、書いてはやめて、を繰り返し、二年経ってようやく文章にできた。あくまでもこれは自分のための記録のつもり。でも少しだけ、誰かに届くといいなあ、届いてほしいなあと祈りながら書いている。



もうすぐ結婚する。
私も彼も元々結婚願望はなかった。正確に言うと「してもしなくても別にいいかなあ」という気持ちだった。絶対にしたくない特別な理由もなければ、絶対にしたい明確な理由も思い浮かばなかった。

結婚してよかったことは?というよく聞く質問に対して、毎日そばにいられる、つらいことを一緒に乗り越えられる、安心する、というよく聞く答え。でもどれもしっくり来ない。夫婦の在り方は様々だけど、それらは結婚しなければ出来ないことなのだろうか。毎日そばにいるのも、つらいことを一緒に乗り越えるのも、安心するのも、お互いの感情や意思の話であり、結婚という制度がそうさせているわけではないと私は思う。
好きな人と愛し合っていて、生活を共にしていて、これからも一緒にいたいという共通認識を持っている今、結婚したからといって一体何が変わるのか、必要性はあるのか。子どものいる未来を描いていない私たちにとっては余計に分からなかった。その答えが見つからない限り、きっと前向きに結婚したいという気持ちにはなれないだろうと思っていた。

二年前、価値観が大きく変わるきっかけとなった出来事があった。
その前に少しだけ過去の話に遡る。

両親は私が幼い頃に離婚していて、父はそのあと亡くなっている。母は多いとは言えないお給料からやりくりして私たち兄弟を育てた。学校の授業で使う彫刻刀や裁縫セットは上の兄弟のおさがりだった。なんとも言えない古めかしいデザインで、配布されたカタログの中から好きなものを選んで買ってもらっている同級生が羨ましかった。でも、特別な日でなくても外食をしたり映画館に連れて行ってもらったりした。誕生日はケーキもプレゼントもあった。贅沢で豪華で派手な暮らしではないけど、海外旅行や回らないお寿司に連れて行ってもらったことは一度もないけど、誰かに驚かれたり迷惑を掛けたりというほどの貧しい暮らしではなかった。
母は大変な苦労をしたと思う。どうやって生活していたのか想像もつかない。それでも家族が一番の宝だとよく言っていて、何か起きる度に子どもたちのことを最優先に考えてくれていた。父を亡くしてから今の今まで、大切にされていないとか愛されていないなどと私自身一度も感じたことがないのは、紛れもない母の愛と努力だと思う。

大学生になった頃、母がお付き合いをしているという男性を紹介してくれた。真面目で優しくて、紳士的という言葉の似合う人だった。愛おしそうに母を見つめている姿が印象的で、二人のことを素直に応援したいと思った。それからたまにみんなで食事をしたり、おじさんの家へ一緒に遊びに行かせてもらったりしたこともあった。
大学卒業後は東京に住むことになり、実家には年に数回帰省する程度になった。母は久しぶりに娘に会っても口を開けば出てくるのはおじさんの話ばかりで、軽く聞き流してしまうこともあったけど、あんなに浮かれている母の顔は見たことがなかった。本当に良い人に出会えたのだと思う。数年前に帰省したとき、最近プロポーズをされたという話を聞いた。これまで苦労の多い人生を歩んできた母の幸せが心から嬉しかった。幸せなんだね、本当に良かったね、と、ひとり帰り道でぽろぽろと涙が出てきたことをよく覚えている。

そして、二年前のこと。
おじさんが亡くなった。突然だった。

自宅で倒れて意識不明のまま入院し、意識は戻ることはなく数日後に息を引き取った。
私はすぐには実家へ帰れなかったため、兄弟づてに母の様子を聞いた。ひどく憔悴しているようだった。愛する人が急に亡くなったのだから当然だと思っていたが、それだけが原因ではなかったということを後日知ることになる。

当時、二人は子どもたちが全員きちんと自立してからと考えていたため、まだ婚姻届は出しておらず、婚約者という状態だった。でもいずれは一緒に住むつもりでおじさんは自宅をリフォームしたり、周囲にお互いのことを紹介したりしていた。おじさん側の親族も母の存在は知っており、中には時々一緒にお酒を飲みに行くなど、親しい間柄の相手もいた。
しかし、久しぶりに現れた親族は様子が違っていた。入院中お見舞いに来た際には、おじさんの意識が戻ることをひたすら祈る母に向かって、お葬式をどうするかという話を始めた。亡くなってからは弔う気持ちなどそっちのけで、遺産がどうのこうのと金品のことしか頭にない様子だった。体裁などどうでもいいから貰えるものは全部貰ってやるという執着心に取り憑かれているようだった。ある物が見つからないとなった際には母が盗んだのではないかと疑われ、幾度となく嫌な言葉や態度で傷付けられた。

母が、遺品のパソコンに写真のデータが入っているので少しだけ貸してくれないかとお願いをした。おじさんは二人で出かけた時などよくカメラで写真を撮っていて、何年にも渡る思い出の記録がたくさん残っていた。完全にプライベートなものなので、他人に見られたら嫌だなという写真も中にはあったと思う。それでも、母の願いは全く聞き入れてもらえなかった。単純に対応が面倒くさかったのか、パソコンをそのまま盗られるかもしれないと考えたのか、中の写真のデータが欲しいだけだと説明しても理解しようともしてくれず、諦めるしかなかった。
ここに一緒に住もうねと約束していたおじさんの家は、知らない間に売り払われていた。何度も通った大好きな家にもう行くことが出来ない寂しさはあるものの、売るという判断については身内が決めることなので仕方ないことだと思う。問題なのは"知らない間"という点で、そこは二人の思い出の品や母の私物や大切なものをたくさん置いていた家だった。お揃いのマグカップ、母の作った置物、祖父から譲り受けて大切にしていた家具など、落ち着いてからでいいので取りに行かせてほしいと直接伝えていた。しかし、売り払われたということは、家の中の物は勝手に何もかも捨てられてしまったということを意味していた。
何度連絡しても無視され続け、挙げ句の果てにはしつこいとでも言うかのように母の電話番号は着信拒否された。

法律上、婚姻関係のない相手に相続権はない。どんなに愛し合っていても、結婚の約束をしていたとしても、配偶者でないとその権利は得られない。でも母は別に資産がほしかったわけじゃない。そんなのはどうでもいい。ただ愛した人を穏やかに見送りたかっただけ、二人の大切な思い出をこれからも大切にしたかっただけ。ただ、それだけだった。

先日、母に会ったとき「もういいのよ」と明るく笑っていた。立派に逞しく前を向いているように見えた。でもそのあと「あの人のこと最近は考えないようにしているの」と続けて言った。ああ、母の"もういい"には悲しかったことや許せなかったことだけではなく、うれしかったことや幸せだったことすらも含まれているのだと思った。あの人のことを思い出す度に嫌な記憶で上書きしてしまいそうだから、せっかくの愛していた気持ちが濁ってしまうから、あのときの幸せだった思い出やあの人の好きだったところにすらケチつけたくなってしまうから、そんなの悲しすぎるから。まるごと全部箱に詰めて心の奥の奥の奥にそっと閉まっておくのだろう。

母の苦しみや怒りやどうしようもない気持ち、悲しくてつらくてやるせない気持ちを想像すると今でもマグマのような涙が溢れてくる。悔しくて腹立たしくて、当時と同じ熱量ではらわたが何度も何度も煮えくり返る。
もしも母があのとき配偶者という立場だったら、という考えが頭から消えない。こんな思いをすることがあるなんて、こんな嘘みたいに悲しい現実があるなんて、知らなかった。

結婚しても別に変わらないよね、今のままでもいいよね、とのほほんと笑い合っていた私と彼にとって一生忘れられない、忘れたくない出来事だった。いきなり頭をぶん殴られたような、突然雷に打たれたような、人生で多分そう滅多にないであろう、自分の中の価値観がぐるんと変わってしまう経験だった。こんな思いはもう二度としたくないし、大切な人に絶対にしてほしくないと強く思った。

結婚とは、大切な人や大切なものを守るための手段なのだと思う。結婚していなくても周りの環境や状況次第で守れるものもあるかもしれないが、確実とは言えない。どちらかが事故にあったとき、緊急手術をすることになったとき、亡くなってしまったとき、何かあったときに配偶者という立場だからこそ得られる権利がある。堂々と主張できる権利がある。

絶対に後悔したくないし、させたくないから、私たちはもうすぐ結婚する。お互いを愛しているという大前提の元、もっと現実的な理由で。


おわりに

私は自分の意思で自分の好きな人と当然のように結婚という選択をすることができる。でも異性ではないというそれだけの理由で好きな人と結婚したくてもできない人が大勢いるこの国の婚姻制度については一刻も早く見直されるべきだし現状マジクソだと思ってる。幸せであるべき人がちゃんと幸せでいられる当たり前の社会になってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?