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農鳥が見える?

昨晩は「お泊まりシネマ」でした。
映画好きの仲間と集まって一晩映画を見ながら過ごそうという企画。

集まったメンバーは6人。
鑑賞する映画はそれぞれ持ち寄って、なかから3つを選び出す慣習になっています。

どう選ぶかは、何となく。

これくらいの集まりだと、間接民主主義的な投票とかは必要なくて、直接民主主義的な話し合いで結論はあっさり出ます。

間接民主主義的な手法を要するほど、処理すべき情報量が多くない。


で、何を見たかと言いますと、

『道』(イタリア、1954年)
TVアニメ『蟲師』のなかの『山抱く衣』
『フル・モンティ』(イギリス、1997年)
『青空娘』(日本、1957年)

渋いセレクトでしょ?

3つのはずが4つになったのは、『蟲師』は短いから。ちなみに『蟲師』を持ち込んだのはぼくです ♬


映画について語るのが本テキストの目的ではないので、スルーします。気が向けばレヴューを書いてみます。『道』についてはすでに書きたい気分になっています ♪


「お泊まりシネマ」の会場になった知人宅(←シネマ会員に非ず)から戻ってくる途中、富士山の「農鳥」の話題が出た。

「今年は雪が多かったのに、農鳥はあっという間に消えてなくなったね」

誰かがそういって、みなが相づちを打つ。
当たり前のことを当たり前に周囲と確認できると、安心することができます。

逆にもし、その「当たり前」が確認できなかったら、不安になるでしょう。

「農鳥? あれは鳥ではなくて馬だよ」
「そう、あれは代馬だ」

こんな返事が返ってきたとしたら、自身の認識を疑わざるを得なくなる。

「どう見たって鳥だ!」

と主張するのは、なかなか難しい。

でも、

「ぼくもあれは鳥に見える」

という者がいたら?
不安はたちどころに晴れ、安心感が訪れるでしょう。

「あれは鳥に見えてもおかしくはない」

でも、それは十分。



こんなことを書きたくなったのは、こちらのテキストを拝見したから。



どうやら、ぼくが見えているのと「同じもの」がpsy39さんには見えているらしい。Jun Turnerさんにも。

それも、ユニークなことに「初音ミク」というレンズを通して。

ぼくの場合のレンズは、『魔法少女まどか☆マギカ』だったり、ゲーテの『ファウスト』だったり、「シャア・アズナブル」だったり、シルビオ・ゲゼルの『自然的経済秩序』だったり、あとは自身が樵として生きてきた体験だったします。


いろいろとレンズを取り替えてみても「見える」。なのに周囲には見えないらしい...、となると、どうしても自身の認識は独りよがりの幻想に過ぎないのではないかという疑いを持たずにはいられない。


今まで抱えずにはいられなかった自身への疑念を晴らすことがことができるかもしれない。

希望を持つことができるのは、とても嬉しい。



感じるままに。