20180103辺野古

「経済人」vs「物語人」

(ヘッダー画像は「海と森がつなぐ命 - 辺野古 - 」からお借りしました)



昨年の末に、著名芸能人のローラが「政治的な」発言をするという出来事がありました。インスタグラムに反対署名を呼びかける投稿したのだとか。

ローラの投稿は大きな波紋を呼んでさまざまな議論を巻き起こしているようで、そうした世界(芸能)に接点のないぼくのアンテナにもひっかかって来ました。

いろいろと意見を眺めてみるに、どうやらローラ自身には「政治的」発言の意図はなかったらしい、という見方が大勢のようです。無邪気に、無知に、「政治的」な発言をしてしまった。

無邪気だけど、発信の影響力は大きいから波紋が拡がった、と。



この一連の「騒動」に対して、腹黒い見方を呈示してみます。

ビビったんだと思います。
無邪気な発言の影響力(政治力)の大きさに。

だれが?
「経済人 homo economicus」がです。

下の記事が、ビビッた「経済人」の意見としては集約的で、かつ、「騒動」全体が俯瞰的に眺められるものになっている。

この記事は何を言っているのか。

ローラは芸能人つまりは「経済人」なんだから、経済的無知は許されないぞ、と言っているんですね。

■企業のイメージ戦略は「民主主義」が前提
(略)そのタレントが、その化粧品もシャンプーも洗剤も実際に使用していなくても(多分、使用していないと思う)、消費者に訴えかけるイメージを重要な要素としている。つまり、そこには企業のイメージ戦略が前提として有り、いかにして多くの消費者の心を掴むかが最大のテーマになる。

辺野古埋め立てに賛成の人が、ローラがCMをやっている企業の製品を買ってくれなくなったらどうするんだ! というわけです。

ちなみにこの意見を主張されている方は「自由人」と名乗っておられます。この部分だけを見ると何が自由なのかよくわかりませんが、まさにこれこそがぼくたちの民主主義と資本主義の基盤になっている「自由」というもの。

「自由」には責任と義務が伴う
「自由」への義務と責任は、「経済人」であることを求める
「経済人」であるということが、【大人】であるということです。



腹黒い見方からすると、こうした意見は「ポジショントーク」です。

ポジショントークとは、自分の立場、立ち位置に由来して発言を行うことである。 転じて、自分の立場を利用して自分に有利な状況になるように行う発言のことも指すようになった。

経済的「自由」を窮屈な思いをしている人間には、これがポジショントークに感じられる感覚は、理解できるでしょう。資本主義や民主主義といったような「大義」を背負って、自分たちの行動を正当化している。その論法は、国際情勢とやらを振りかざして正当化するのと同じ。

それらがすなわち「ポジショントーク」です。

そして、そうした「ポジション」を守ることの方が、辺野古の自然を子孫に伝えていくことより大切――

なわけないだろ!


とぼくは強く思うので、大書しておきます。


余談ですが、ぼくが〈愚〉を名乗っているのは、このように狭量で賢しげな【自由】というものへの皮肉でもあります。そんなものを身につけて利口に振る舞うくらいなら、バカであることの方がずっといい。

だから、ローラの無邪気さは大好きだし、大いに支持します。
美形ですしw



せっかく(?)なので、「経済人」についてひとくさり。

「経済人」という概念は手垢の付いた古くさいものだと言っていいかもしれません。この概念はファシズムを批判するために用いられた概念。つまり、戦前のものです。

たとえば経営学の大家だったピーター・ドラッカーは『「経済人」の終わり」――新全体主義の研究』という本を著していますが、これが出帆されたのが1939年です。

第二次大戦終結が1945年ですからね?

まだ「経済人」やってるのかよ!? 


という話です。

ドラッカーは「経済人」がファシズムをもたらすと言いましたが、そう指摘したのはドラッカーだけではありません。ハイエクも、アーレントも、ポランニーも、ロールズも、そう言った。つまりは「定説」なんです。(勉強しましたw)

なのに、未だに、、、。


ちなみにドラッカーは、「経済人」の次は「産業人」だと主張しました。資本主義を運営する「企業」が人間を人間らしく(=ファシズムといったような破壊的な政治経済体制にならない)していくのだと想像し、そのための指針を示さんとして『マネジメント』というあの有名な本を書いた。

少し前に流行したアレの、ネタ本です。


ドラッカーが真摯であったことは大いに認めるべきことですが、社会は残念ながらドラッカーの期待通りには進まずに、あいからわず「経済人」の自由に支配されたまま、「生きづらさ」が加速している。


そういえば最近、このような本も入手したので、読んだらまた感想を書いてみたいと思います。

この本で論われている(であろう)「自由」は、いまここで論っている「自由」とおそらくは同じものでしょう。



「経済人」は「産業人」にはなれなかった。
そのかわりに、「ホモ・エコノミクス」は「ホモ・デウス」になろうとしている。『ホモ・デウス』が描きだしている「データ教」が支配する社会も、これまたファシズムにそっくりです(ここはまた改めて書きます)。

そんなところへぼくは行きたくはないし、この思いは多くの人の思い出もあると信じています。


では、どこへ行きたいのか?

たとえば、このようなところ。

そういってしまうのは申し訳ないけど、たわいもないノートです。何かの縁があってぼくのタイムラインに今朝、表示されたもの。

箱根駅伝の話題から筆者自身の身近なところへつながっていく。ここで記されているのも「何かの縁」なんだと思います。

こうした、「何かの縁」で生きているいるのだという感覚の人間を、「物語人」とぼくは言いたいと思います。

「何かの縁」で生きているということは、それは「たまたま偶然」であると同時に「なるべくしてなった必然」でもあるということ。

過去から見れば偶然。
未来から見れば必然。

〈物語〉というのは、偶然と必然とが折り重なって位相転換される〈いま、ここ〉のこと。

誰かの〈いま、ここ〉が伝わって、誰かに「意味」を与え、それが「価値」になる。そうしたことが技術的に可能なところまでぼくたちはすでに来ている。

――というようなことを「キチンと書きたい」と思っています。


ということで、今、勉強しているのが、マーシャル・マクルーハン。『グーテンベルクの銀河系』が有名な人。

ぼくたちは「活字人間」です。ということはすなわち、「過去」に生きているということ。なんとなれば、活字は過去のものだから。そうでしかありえなかった。グーテンベルクの印刷技術が、「過去」を人間世界に拡大繁殖させていった。

「経済人」は「貨幣人」であり同時に「活字人間」でもあります。「過去」に生きざるをえない人間が、均衡をとるために「貨幣人」としては「未来」に生きざるをえなくなった。未来に向かわざるをえなくなり、未来に向けて希望を抱くことを強いられいているのが、ぼくたち「自由人」です。

『グーテンベルクの銀河系』が記しているのは、かつて〈今〉を生きていた話し言葉の人々が、いかにして過去に生きる「活字人間」になっていったかということです。

でも、現在は、テキストのままでも〈いま〉を生きられるようになりつつあるではないか。テキストだけではありません。写真も、歌も。

感じるままに。