20181113希望のかなた

映画『希望のかなた』

昨晩は映画を観ました。月一で催しているささやかな映画の会。観たのは邦題を『希望のかなた』とタイトルされたフィンランド映画。


昨年のベルリンでシルバーベアを受賞した作品だというのは、観た後で知りました。

フィンランドの名匠アキ・カウリスマキが、前作「ル・アーヴルの靴みがき」に続いて難民問題をテーマに描き、2017年・第67回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞したヒューマンドラマ。シリア人の青年カリードは内戦が激化する故郷を追われ、生き別れた妹を捜すうちにヘルシンキに流れ着く。内戦で全てを失ったカリードにとって、妹を捜し出すことだけが唯一の望みだった。ヨーロッパ全体を悩ませる難民危機の影響か、無情にも難民申請を却下され、いわれのない差別や暴力にさらされるカリードだったが、レストランを営むビクストロムに助けられ、彼の店で働くことに。ビクストロムもまた、行き詰った過去を捨てて人生をやり直そうとしていた。ビクストロム役に「過去のない男」のサカリ・クオスマネン。

『映画.com』から拝借しました。

解説を読むと生き生きとした映画が想像してしまいますが、さに非ず。映画のなかで演技をしている俳優たちは一様に表情が乏しい。監督の意図でしょう。乏しい表情の俳優が淡々と、どこかピントが外れてコメディになっている非現実を描いてみせることで、観客の〈生き生き〉を引き出そうとしている「引き算」の映画と言えばいいか。


「引き算」の映画といえば、川本喜八郎監督作品の『死者の書』が思い浮かびます。表情のない人形劇の映画。

「引き算」は、日本においては伝統的というか、もっとも日本らしいと言ってもいいのかもしれない表現技法です。表現の方向性です。枯山水であるとか、俳句であるとか。表現を凝縮していって、鑑賞する側から何ものかを引き出そうとする。

その伝でいえば、カウリスマキ監督が引き出そうとしているのは「笑い」でしょう。醜悪な現実――難民・貧困・レイシズム――を無表情なコミックに仕立てることで、観る者から湧き上がってくる笑い。

でもね、その笑いは苦笑いでしかないんです。


表現として、それはもちろん「あり」でしょう。ただ、生命力の枯渇を感じざるをえない。醜悪な現実を苦笑いにしてやり過ごすしか術がないという逃避の精神、怠惰の精神を感じてしまうというか。

それこそ笑って誤魔化すしかない。


と、ここまで書いて連想した別のヨーロッパ映画があります。


ダンデルヌ兄弟監督の、こちらも難民問題が背景に描かれた作品。

この映画の宣伝文句はダンデルヌ監督が初めて音楽を使ったというもの。ベートーヴェンのピアノソナタの最後の作品、”アリエッタ”と呼ばれる「昇華の音楽」が使われている。

このやり方はずるいと思いました。映画のなかには「昇華」への過程は何も描かれません。抗いながらも、押し流されて堕ちていくしかない人間が描かれている。そして、行き詰まったところで唐突にアリエッタが鳴る。

描きながら手に余って、ヨーロッパの遺産に解決を委ねた。

ずるいけれど、でも、誠実ではある。カウリスマキ監督の「引き算」にも、同じものを感じます。

ヨーロッパの知性の生命力の衰退。


こうした誠実さは、居心地はいいんですよね。誠実であることが「そこにいてもいい」という口実になる。でも、「そこ」は傷ついた者が一時的に非難する分には大いに利用してもいいけれど、いつまでも居座っていていい場所ではない。居座れば「ひきこもり」です。

ヨーロッパは難民問題で傷ついているけれど、でも、それは相手を傷つけた結果として起きた現象。ヨーロッパはそのブーメランを喰らっている。

自身の誠実さに引きこもっている場合ではなかろうと思ってしまいます。

感じるままに。