善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。

上の文章は、鈴木大拙の『日本的霊性』に掲載されているものなのですが。

「好き」という言葉では足りません。
「畏敬」です。
畏敬を覚える。


では、その畏敬は、誰に対して?
あるいは何について?

以前はよくわかっていませんでした。

「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば慈悲をかけてくれるという阿弥陀仏ですが、畏敬の対象が阿弥陀仏ではないことは明確でした。老夫婦も上人も、阿弥陀仏を畏敬していることは文章から明白ですが、現代の世に生きるぼくには、彼らの畏敬に同調することはもはや不可能です。

あいや。そう言ってしまうと、老夫婦は上人に同調したことになってしまいますね。老夫婦のものは「同調」ではなかったと思います。ないと思うけれど、どう言えばいいのだろう?


思うに、老夫婦はすでに彼らの抱える苦悩についての「答え」をもってはいた。「答え」は持っていたけれど、「回答」することができない状態でいた。

誰にだって経験があると思います。
何か問題を与えられて、あるいは自ら設定をしてみて、回答のイメージを抱くに至った。イメージは明瞭にあるのだけれど、そのイメージを明確に言語化することができなくて、モヤモヤを抱く。そこに「ああ、それは、こういうふうに言うんだよ」と腑に落ちるような言葉を与えてもらうと、モヤモヤが一気に解決したような晴れ晴れとした心持ちになる――。


ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。

逆に、モヤモヤに不適切な名前を与えられたりすると、「畏敬」のはずが「畏怖」になったりもします。老夫婦が地獄といったような観念を持っていたということは、誰かにその名前とイメージを与えられたのでしょう。


モヤモヤは「感応」の兆し。
この世界にしっかと根付き、成長した〈いのち〉は「感応の花」を咲かせる。そこにたまたま何が受粉するか(言語化されるか)で、「感応の実」が変わってくる。

面白いのは、「感応の実」が実っても、そこで終わりにならないこと。


老夫婦は、抱えていたモヤモヤに一旦は地獄という「回答」を得た。その「回答」は、彼らの「心」になった。なればこそ、切実に、

たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。

となる。この切実な希求は、地獄という「感応の実」がそこでファイナルアンサーにはならなかったことを示しています。「たすけさせ給え」と訴える老夫婦は、もう一段の「感応の花」を咲かせている。


現在のぼくは、畏敬の念を抱いた対象を言語化することができます。それは、

「感応の花」の素直に咲かせていること

です。

大輪の花ではない。
そこいらの野辺にあるような小さな花。
懸命に、素直に咲いている。

素直に全力で生きることが往生する(極楽浄土に生まれ変わる)ことへの道になる。

ここでは、「善悪」は往生の条件ではありません。
「感応」が往生の条件。
そして、「悪人」の方が「感応」のための条件という意味では勝っている。

(それは社会が理不尽だからですが...)



ところで、「感応」はディープラーニングのメタファで語ることが出来ると思います。

生命は生きるためにさまざまな情報を感知し、編集をして自身にとって有用な「価値」へと編集をします。その編集手法がディープラーニング。情報が神経系の中でフィードバックを繰り返されながら、ひとつの「値」へと収斂していく。

デジタル回路では収斂された値(「特徴値」というそうですが)は当然に、デジタルな「値」でしかありえない。だったら、アナログな回路ならば、それはアナログな値――すなわち「イメージ」でしょう。


ディープラーニングの機能は「特徴値(アナログならば「価値イメージ」?)」を出力するまでです。「特徴値」を特定の名前と連結させる仕事は(社会化した)人間の領分です。

ディープラーニングをし「価値イメージ」を出力した人間は、人間であるがゆえに、言語化できないことに不全感(モヤモヤ)を抱える。これは言語能力がない他の種ではないことだと推測できます。

ディープラーニングで出力された「価値」は、それは全力で為されたものなのだから、本来それは「善」であるはずのもの――ところが必ずしもそうならないのが社会の理不尽だし、理不尽に突き当たる人間(悪人)ほどリフレーミングを繰り返してディープラーニング(感応)を重ねていかなければならないことになる――。

すなわち、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。


参考に。



感じるままに。