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追記~「とある女性との対話」2022.1.17

昨日の防備録に追記です。

・「責任 responsibility」について

(前略)倫理、義務感、誇り、プロ意識、勇気といった定量的に図ることのできない内的動機に基づいて、消防や教育という公共的な仕事はかろうじて成立しています。
 これらの内的動機は、一言でまとめれば「責任」です。それも外から押しつけられた責任ではなく、自らが気づいた内なる責任の自覚。もう少し強い言葉で言えば「使命」。
「天職」とは、自分にとって効率的に稼ぐことができる職場、職能ではなありません。天職は英語では「calling」です。
 誰かから呼ばれること、誰かの声を聴くこと、これが天職の原義です。
 もちろん、西洋の考えでは、その声の主は神です。
 ですが、その声には神ならぬ普通の誰かからの「助けて」という超えも含まれているのではないでしょうか。
 そして、たまたま自分には、その声に応じるだけの能力と機会があった。
 それに気づいたとき、そこに責任( responsibility、応答可能性)が立ち現われます。
「自分にできること」と「自分のやりたいこと」が一致しただけでは天職とは言えません。第三の「自分がやらなければならない、と気づくこと」という要素、つまり使命の直覚が発生しなければならない。
(『世界は贈与でできている』p.61~62)

責任、responsibility、応答可能性。
応答可能性を持っている者とはどのような者なのか?

大人と子どもでは、大人。
教師と生徒では、教師。
上司と部下では、上司。
上下の人間関係があったとき、上の立場に立つ人間のほうが応答可能性は高いはずだし、高くなければならない。

つまり、責任は常に上の立場の人間にある。
だが現実はそうではない。
下の立場の人間に押しつけらるのが常になってしまっている。

ここでいう「責任」は業務上の責任という文脈ではない。
コミュニケーション上の「応答可能性」という意味である。

コミュニケーションは必ず失敗する。
コミュニケーションが失敗したとき、その失敗の責任はつねに上の立場の人間にある。

大人のいうことを子どもが理解できなかったとき、その責任は大人にある。
教師の授業を生徒が理解できなかったとき、その責任は教師にある。
上司の指示を部下が理解できなかったとき、その責任は上司にある。

ところが現実は逆になっているとほぼ断言していいだろう。

大人のいうことを聞けなかったとすれば、子どもが悪い。
教師の授業が理解できなければ、子どもは出来が悪い。
上司の指示が理解できなれば、部下は無能である。

なぜそうなるのか、理由は単純。
査定をするのは常に上の立場の人間だから。
上の立場の人間は、能力があるから「上」になる。
「上」となった能力に立脚することをせず、
「上」だということで獲得したポジションに立脚してしまうと、
自分自身は査定から外されてしまう。

努力の結果として獲得し得たポジションは、ほとんどの者にとっては「アイデンティティ」となる。つまり、"応答可能性"という意味での責任を果たすということは、アイデンティティに立脚してはいけないということになる。

アイデンティティを否定することは、努力を否定すること。
ほとんどの者はそのように捉えるだろう。
だから、ほぼ常に「責任(応答可能性)」は下の立場の人間に押しつけられることになる。

こうした"責任力学"のなかには一見、暴力性は見当たらないようにおもわれるがそうではない。責任を取るべき者が取らないのは、もはやそれだけで暴力になっている。

以上が Hidden Violent Commnication が生まれる機序である。
そうした機序にならないための方法論が Non Violent Commnication である。


再度、NVC の要諦を眺めてみる。

①観察すること(評価しない
②感情に気付くこと(感情と意見を区別する)
感情に責任を持つこと(客観視)
④人に対する要求(曖昧を避け肯定的な言い方で)をサラリと説明できて、他者共感することが出来る

①の「評価しない」はアイデンティティに立脚しないの意味になる。
③に挙げられている「責任」とは、もちろん応答可能性の意味になる。

相手を観察して感情に気がつき、気がついた相手の感情への自身の応答能力を十全に発揮することができれば、それはそのまま相手への素直な要求になり、かつ相手への共感も含まれている。

HVC に順応してしまっている者は、これが非常に困難になる。

アイデンティティに立脚してしまう。
ゆえに、気がつきやすいのは相手の感情より自身の感情。
責任は自身の応答能力ではなく、相手に応答させる強制力。
他人に対する要求は、自身のアイデンティティに立脚した「ポジション・トーク」になる。


自転車に乗ろうとトライしている子どもと、サポートをする大人の関係を想像してみる。

子どもにとって自転車に乗るのは冒険である。
人間は極めて優秀な身体感覚拡張能力をもっているから、自転車に乗ることができるようになる。
冒険とは感覚拡張だが、危険が伴う。
感覚を拡張するにはトライアンドエラーが必要。
失敗の体験をしないと感覚拡張は起こらない。

大人は子どもをサポートする。
絶対に転ばないようにサポートしてしまったのでは、子どもはいつまで経っても自転車に乗ることができるようにはならない。
大人は、必ず手放さなければならない。
であるにもかかわらず、子どもが転べばそれは大人の責任である。
転ぶその瞬間に応答する能力が不足していた、ということだからだ。

サポートをする大人に応答能力が不足していた場合。
あるいは、そもそも応答する意志がない場合。
子どもはいずれ自転車に乗れるようになるだろうけれど、その成功を自分の努力の成果だと認識するだろう。
アイデンティティの発生。
自己責任の発生。

大人から責任を放棄されて自己責任で自転車に乗れるようになった子どもは、他人が自転車に乗れない様子を見たときにどのような感想を持つか、想像するのは容易である。

「努力が足らない」

その子どもが成長して為すのは、OVC もしくは HVC になる。
理性が育てば、HVC。そうでなければ、OVC。


感じるままに。