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「時代の流れ」はより seriously

山田洋次監督の『故郷』を観て湧き上がってきたこと。
3つあります。
ひとつはすでに書きました。

あとふたつ。どちらもぼく自身に関連することだけれど、どちらから書こうか...。

「今」の方からにしましょうか。


ぼくが今、コンビニ店員をやっているのはすでに書いているとおり。すなわち、雇われて、時間を切り売りして働いています。と、いうことは、ぼくの時間を買い上げている人間がいるということ。

コンビニの場合、それはオーナーということになる。


船長の石崎精一(井川比佐志)と友人の魚屋(渥美清)との間で、こんな会話が交わされます。

「そうか、とうとう労働者になっちゃうわけだ。じゃあ、あんたはもう船長さんじゃなくなっちゃうんだねえ」。「船長も労働者も一緒じゃろうが。どこが違うんじゃ?」。

仕事は仕事、何をやっても同じことだろうと精一。

「いいや、違うね。全然違う」「まず労働者より船長さんの方が賃が安い。そして、労働者より船長さんの方が仕事がきつい」。

この返答を船長でもない魚屋が返すところにおかしみがあるんだけれども。

「でもね、やっぱり船長さんは船長さんなんだよね」。

これ、コンビニオーナーもまったく同じ(だと思いました)。

コンビニ店員の時給なんて(ご存知の通り)安いものだけど、オーナーはもっと安いんじゃないか。ここはそれこそ事業主の「自己責任」でバラツキは大きかろうけれど。それに、たとえ手取りは良かったとしても、その対価として差し出しているものを考えると、とても収支が合わないと感じています。


1972年制作の『故郷』では、主人公家族が対価として差し出したのは「故郷」でした。彼らは「時代の流れ」に自らの意志で乗って、乗り切れずに転覆し、「故郷」を対価に差し出して事業主から労働者になった。

その失意は察せられるけれど、でも、あの時代であったならば妻子を養うことはそれほど難しいことではなかったろうし、「家族のつながり」が保つことさえできれば、平々凡々とした(幸せな)暮らしを再建することはできなくはなかったはず。


翻って現代、船長と同じような境遇にあるオーナーたちが差し出しているのは「家族のつながり」そのもの。

ここいらあたりは現在進行形なので、ぼく自身はまだ詳細には書けないんだけれど、その代わりに...


経済成長という【未来】に差し出して故郷を喪失し、あるいは故郷を故郷でなくしてしまい、次に差し出しているのは人間が人間である根拠そのもの

〔人間であること〕を【未来】へ差し出してしまって、残り少なくなった〔人間であること〕を大勢の者たちで奪い合っている。

ブラックな労働、パワハラがニュースに流れない日はないような体たらくになっている現代社会だけれど、それもこれも〔人間らしさ〕を奪い合うハメに陥っているからだと、ぼくには見えています。


みんな真剣に生きていると感じます。映画の中の船長も、コンビニのオーナーも。ブラック企業で勤める者。受験勉強に青春を懸けている者。いじめに耐えかねている者。

被害者の側だけではない。加害者の側だって、多くは本当のところでは〔人間らしさ〕を欲しているのだと思う。ところが肝心の〔人間らしさ〕がわからなくなっている。

フィクションの世界を覗けばそれは嫌になるほど溢れているのに、いざ、現実になると、どうやったら〔人間らしさ〕を保っていられるかがわからない。だから、仕方がなくフィクションの世界へ逃げ込んで、そこを居場所にしようとする。


「真剣(seriousness)」というのは、自分を守るために他者を犠牲にするという選択に殉じるということです。それも、自分で気がつかないうちに。

でも、もう、守れなくなっている。守るためには自分自身を差し出すしかなくなくなりつつある。

それを「守る」というのか?
言うとすれば、何を守っているのか?

この問いへの解答のひとつがコチラで取り上げた小説です。

「國體」を守るために自身の生命を差し出すという。
でも、「國體」といったって、リアリティのある「虚構」でしかないんだけれど。

人間はアタマが良すぎて下手にリアリティを持つことができてしまうから、リアリティさえあれば「虚構」にですら自分自身の〈人間〉を差し出すことができてしまう。

とてもバカで、とても善良だと思います。

感じるままに。