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学習は創造であり愛である

前回の記事ではway_findingさんのサークルを取りあげました。

今回はわが『空小屋』の宣伝も兼ねつつ(笑)、前記事にway_findingさんからいただいたコメントへのレスポンスです。コメント欄でレスをするのではもったいなさすぎます。

読む、ということについて、前にこちら
https://note.com/way_finding/n/n5bbd9efb9c4c
の記事にながーく書いたことがあるのですが、改めて今回の井ノ上さんの記事で「変換」と「創発」というエッセンスに気づくことができました。

読むということはすなわち変換可能性の創発に寄り添うことである。これぞ井筒氏が書かれている「アラヤ織の育成」ということなのかなと思うところです。

この可能性の創発は、私たち個々人が気付かぬうちに与えられてしまった意味分節の呪縛的「カルマ」の中から始動する。それは傷口に食い込んで癒着したものを引き剥がすような痛みを伴う動きであり、しかし同時に「癒し」の始まりでもある、などと言うこともできるかもしれません?!

太字強調は引用者、つまり私です。

読むということはすなわち変換可能性の創発に寄り添うこと

まずはこの一文。"寄り添う"という言葉が加えられていることが素晴らしい。創発というものの性質を見事に言い表しておられます。

創発というものは意図して起こすことができません。必ず起きるものですが、いつ起きるかはわからない。まるで地震のようですが、それもそのはずで自然現象だからです。創発は自然現象。私たちの裡なる精神の中で生起する自然現象なんです。

さらにいえば、言葉そのものが創発です。この創発のことを、例えば養老孟司さんは「同じにする」という言い方で表現しています。

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視覚・聴覚・触覚の三感覚を「同じにする」という創発によって生じるのが言葉だと指摘をされています。科学的な分析に依拠しつつ、科学的なところから一歩踏み越えたところを『遺言』という形で伝えておられます。

この創発には有名でかつ端的な例があります。ヘレン・ケラーの奇跡です。

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 先生と私は、井戸を覆うスイカズラの香りに誘われ、その方向へ小径を歩いて行った。誰かが井戸水を汲んでいた。先生は、私の片手をとり水の噴出口の下に置いた。冷たい水がほとばしり、手に流れ落ちる。その間に、先生は私のもう片方の手に、最初はゆっくり、それから素早くw-a-t-e-r と綴りを書いた。私はじっと立ちつくし、その指の運動に全神経を傾けていた。すると突然、まるで忘れていたことをぼんやりと思い出したかのような感覚に襲われた――感激に打ち震えながら、頭の中が徐々にはっきりしていく。ことばの神秘の扉がひらかれたのである。このとき始めて、w-a-t-e-r が、私の手の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいもののことであるとわかったのだ。この「生きていることば」のおかげで、私の魂は目覚め、光と希望と喜びを手にし、とうとう牢獄から解放されたのだ!  (『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』小倉慶郎訳 新潮文庫 p.34~35)

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「ことばの神秘の扉」
「魂の目覚め」
「光と希望と喜び」
「(魂が)牢獄から解放される」

個々の言葉だけを抜き取ってしまうと大袈裟な響きになってしまいますが、決してそうではありません。そのように表現するに相応しい"明白"なことです。大袈裟に感じられるのは、私たちが"明確"な表現しか受け付けなくなってしまっているからです。

way_findingさんの言葉へ立ち返りましょう。

この可能性の創発は、私たち個々人が気付かぬうちに与えられてしまった意味分節の呪縛的「カルマ」の中から始動する。

ヘレン・ケラーの例で見るように、そもそも言葉自体が創発です。「言葉を覚える」ということは人間にとって大きな成長ですが、同時に大きな危険も孕むようになります。言葉を理解するようになったがゆえに、言葉を刷り込むことも可能になってしまうからです。

言葉を刷り込まれてしまった結果、生じるのが呪縛的「カルマ」。私たち人間は、無意識のうちに言葉を刷り込まれてしまっています。刷り込まれた言葉、すなわち「他者の言葉」です。

「読む」ということには、ふたつの意味があります。

ひとつは「他者の言葉」を受け容れること。
もうひとつは「他者の言葉」を「自分の言葉」へと変換すること。
way_findingさんの「読む」は、いうまでもなく後者です。

ちなみに私は前者を【読む】、後者を〈読む〉と表記します。
【 】の記号が意味するところは、牢獄。
〈 〉の記号が意味するところは、開放です。

言葉の出発点を創発(=〈ワンダー〉)と捉えているのがチョムスキー、刷り込み(=【サンクション】)と捉えているのがトマセロ――と私が捉えているのが上の記事です。

もう少し言いますと、チョムスキーは〈ワンダー〉から出発して【サンクション】になるという捉え方。トマセロは逆で、【サンクション】から出発して〈ワンダー〉になっていくという捉え方。way_finding - 井筒方式はトマセロに近いのかもしれません。

以下は、wikipediaのマイケル・トマセロのページから。

霊長類学や発達心理学、特に言語獲得を専門とする。言語獲得では、認知言語学、構文文法に近い立場を取り、ノーム・チョムスキーの生成文法理論を激しく批判している。生得的な言語構造を認めず発達の初期に個別の語ごとに固定された表現を学習し(動詞島仮説)、そこから徐々に一般化することによって、より抽象的な文法をボトムアップ的に獲得するとしている。トマセロの言語獲得の理論は社会語用論的アプローチと呼ばれ、共同注意(ジョイントアテンション)を初めとする社会的・コミュニケーション的な側面の果たす役割の重視を特徴としている。

固定された表現からの一般化。これすなわち〈読む〉ということでしょう。

愚慫式の言語理論は

〈ワンダー〉 ⇒ 【サンクション】 ⇒ 〈ワンダー〉

という流れです。言葉はまず創発(〈ワンダー〉)であり、いったん言葉を覚えてしまうと刷り込み(【サンクション】)されてしまう。なので【サンクション】はなるべく少ない方がいいし、刷り込まれてしまった【サンクション】も事後的に開放することができますよ、というもの。

つまり〈読む〉ことをすればいい。シンプルでしょ?

そして、〈ワンダー〉のことを"学習"といい、【サンクション】のことを"勉強"と言います。自発的学習は楽しいけれど、強制される勉強はツマラナイ。だれもが識っている経験的真理でしょう。

この経験的真理を対話のなかで再確認しながら、創発の悦びを見出していきましょうというのが『空小屋』という試みです。

『愚慫の空小屋』と『way_findingの精読塾』。やっていることはほぼ同じだと思っています。とはいえ、違いはあると感じていて、それは『精読塾』は上級者向け。〈読む〉ことをすでに習得し、〈ワンダー〉を識っている者が創発の悦びを再確認する場。というと凄いことをやっているようですが(笑)、そうでもないんですよ。

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詰まるところは、これ。大人の『センス・オブ・ワンダー』。少なくとも私はそう思っています。

一方の『空小屋』は【サンクション】の呪縛から解放されることを主眼に置いています。本を精読するということもやっています。いままでにやったのは、

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こういった本を「分解」しながら読み進めて著者の心理を暴き、読み手の心理と対置、共感していくという方法。〈読む〉目的は人間との共感。なので、どうしてもナラティブな対話でないと不可能です。


三度、way_findingさんの言葉に戻りましょう。

それは傷口に食い込んで癒着したものを引き剥がすような痛みを伴う動きであり、しかし同時に「癒し」の始まりでもある、などと言うこともできるかもしれません?!

「言うことができる」のではなく「断言できる」としていいと考えていますし、『精読塾』も『空小屋』も「癒し」のための具体的な方法論である、と言えると思っています。少なくとも「癒し」の可能性を探ることにはなっているでしょう。

では、なぜ、癒しになるのか。どのようにして癒やされていくのか。ここから先は、私独自の見解になります。

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一般的には人間(というより動物)には「三大欲求」があるとされています。すなわち

・食欲
・睡眠欲
・性欲

私はこの認識は誤っていると考えています。三大欲求に

・学習欲

を加えた「四大欲求」が正しい認識であるというのが私の主張です。

なぜか。四大欲求はいずれも「本能」です。本能とは、生物の個体ないしは種が生存するのに必要な能力のこと。本能を惹起させる欲求が「四大欲求」です。

食欲と睡眠欲は、個体の生存に必要な能力の惹起。性欲は種の保存です。では学習欲は? これも種の保存に必要な能力を惹起するもの。

私たち人間すなわちホモ・サピエンスは、高機能な集団を形成することによって生き延びている動物種です。われらホモ・サピエンスが単独では他種との生存競争に勝ち抜くことができないことは、誰から教わるでもなく先験的・本能的に識っている真理というべきものです。

つまり、私たちホモ・サピエンスが"社会”という名称で呼び習わしている高機能集団なくして生き延びることはかないません。ならば、社会生成能力を"本能"と呼んでも差し支えないはずです。いえ、積極的に"本能"と呼ぶべきです。

種のレベルにおいて"社会生成欲"と呼ぶべき本能の一分化は、個体のレベルにおいては"学習欲”になります。というのも、私たち人間ひとりひとりは「学習」をすることによって社会すなわち高機能な集団を形成していくからです。

さて、ここで本能的欲求の性質について指摘をしておく必要があります。その性質とは「満たされると満足する」というものです。食欲然り、睡眠欲然り、性欲然り。ならば、学習欲もそうでしょう。

と同時に、欲求を為す主体(個人)が主体的に欲求しているのではない状態で、平たく云うと欲しくないときに、強制的に与えられるのは苦痛以外の何ものでもない、ということ。これまた食欲然り、睡眠然り、性欲然り。特に女性における性欲の場合には、強制的な本能作動は「魂の殺人」と呼ばれるほどに強い苦痛を与えることになってしまいます。

「魂の殺人」が行われてしまうと、他の欲求である食欲や睡眠欲にも大きな歪みが生じてしまいます。こうした人間現象を、私たち人間は当然のこととして受止めます。性欲が歪んだからといって食欲や睡眠欲が歪むのはおかしいだろうとは誰も思わない、という事実がある。

「魂の殺人」というと、もうひとつ想い起こされるものがあります。

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親は子どもに何をしたか。ある種の「教育」が憎しみと暴力を生みだし連鎖させていく事実の一端を示す、アリス・ミラーの著作です。

力の強い男は女に対して「魂の殺人」がしてしまいがちであるように、未熟な子どもは大人に魂を殺されるような教育を受けがちである。性欲も学習欲もともに本能だとするならば、受け手に喜びのないコミュニケーションは、それが強烈な場合には「魂の殺人」と表現されるようなものになってしまう。が、そこまで強烈ではなくても、喜びのないコミュニケーションが行われていればそれは本能の作動を損なって本能のバランスを崩し、他の欲求に良からぬ影響を及ぼすものになってしまうでしょう。

喜びのないコミュニケーションは、それ自体が呪縛です。呪縛から解放され、本能本来の作動を取り戻すことができれば、それがそのまま「癒し」となります。

実にシンプルなことだと思います。

本能のありように沿って能力を発揮させて生きることは、そのまま悦びである。たったこれだけのことだと思うのです。

ホモ・サピエンスという動物は、極めて高度な知性を備えることが可能な動物です。知性とは学習欲が高度に発展した形態を指すと言っていいでしょう。ヒラメキ・創発を発揮しながら〈読む〉という行為は、人間に備わっている本能を高度に発揮させる大きな悦びに満ちた行為ですから、それがそのまま「癒し」になっていくのはごくごく自然な成り行きだと考えます。

感じるままに。