見出し画像

〔こころ〕のかたち

〔こころ〕とはなにか。
ぼくなりのイメージを開陳させていただきます。


解説が必要なイメージ図しか提示できなくて申し訳ないのですが。

〔こころ〕は何処にあるのか。
全身にあります。
からだ全体が〔こころ〕です。

現代では〔こころ〕は脳の機能だと考えられています。その考えは誤りではないと思っています。でも、正解でもない。

脳は〔こころ〕の受像機です。
受像機を〔こころ〕というなら、それはそれで正解でしょう。ただ、その意味での〔こころ〕は、ほとんど「意識」と同じだと思います。

では、「意識」が〔こころ〕なのか。
ぼくはそうは思っていません。


人間の脳はコンピュータでいうとCPUに例えられます。そう例えられるときの人間のイメージは、シングルコア。脳にCPUがひとつだけ。CPUは”central processing unit”の略ですが、イメージは文字どおり「中央」で、「中央」という言葉の感触(言霊)が、〔こころ〕という言葉の感触と重なっています。

ぼくのイメージでは、人間(というより多細胞生物)は、ハイパーマルチコアです。極端に言えば、細胞一つ一つがCPU。中庸的にいうなら、身体の器官ひとつひとつにCPUがある。

ただし、身体各所のCPUにはメモリと外部記憶装置は備わっていない。メモリと記憶装置が備わっているのは、脳だけ。


脳を筆頭に、身体各所のCPUはネットワークを構成しています。身体各所の器官はそれぞれに作動し情報処理をしますが、ネットワークの情報処理は脳にあるCPUが管理しているメモリで行われる。

狭義の意味での〔こころ〕は、このメモリです。メモリの動作の一部をモニターしているのが「意識」。


古来から人間は〔こころ〕の在処は胸にあると考えて――いえ、感じてきました。心臓に〔こころ〕の機能が宿っていると考えた。だから心臓は”心の臓器”と呼ばれ、その機能を科学が究明した現代に至っても、その名称で呼ばれています。

そして、現代に至っても〔こころ〕の在処が胸にあるという感触はなくなっていない。その感触がまだ生きているからこそ、循環器系のポンプ機能を果たす臓器が”心臓”と呼ばれても、違和感を感じないのでしょう。

実際、心臓にも〔こころ〕の一部はあると思います。それも比較的大きくて、脳のメモリに大きなデータが流入する、処理能力が大きいCPU。


もうひとつ。意識はされないけれど、胸に劣らず大きな情報処理能力を備えているとおもうは、手です。

〔こころ〕を感じようとするとき、人は自然に胸に手を当てます。だから、心は胸にあると考える。けれど、逆だっておかしくはないんです。〔こころ〕は手にあって、胸で〔こころ〕を感じるのであっても、不思議なことはなにもありません。

なにしろ〔こころ〕とは「感じるところ」なのですから。

手に〔こころ〕を感じないのは、手があまりに多くのことを感じるからでしょう。目や耳もそう。目や耳に〔こころ〕があると思う人は少ない。

〔こころ〕はCPUなのだと考えると、不思議なことに、不思議ではないことが理解できてしまいます。


日本語は〔こころ〕が身体各所を在処にしていることを多く示している言葉でもあります。

また、科学の新しい知見は、従来脳の独占的な機能だと考えられてきたことが、身体の他の器官と深く関わりがあることを発見しています。

たとえば、感情は小腸の働きと深く関連しているとか。


でも、やっぱり〔こころ〕はひとつです。〔こころ〕が幾つもあると考えてしまうと、引き裂かれるような感じが生まれる。その感じからしても、〔こころ〕はひとつであって欲しい。

だとするならば、〔こころ〕とは、身体各所のCPUが生みだすネットワークだと考えるのが妥当でしょう。



身体各所にCPUがあるということを実感することができる方法があります。野口晴哉が提案した「活元運動」というのがそれです。


覚醒しているときの人間(動物)は四肢の動きを脳で制御しています。手足にもそれぞれCPUはあるのだけれど、脳のCPUの制御下に置かれるのが覚醒の状態。

睡眠中のように脳の制御が緩くなると、各所のCPUは自在に動こうとする。寝相というのは制御が緩くなった状態で起こる身体現象です。子どものように身体が元気でかつ制御があまり強くない人間は寝相が悪くなりますが、寝相が悪いのは心身ともに健康であることの証でもあります。


活元運動は、寝相のような状態を脳の覚醒中に実現する方法です。脊髄あたりに「鍵」があって、外してやると、身体各所が勝手に動きだします。


活元運動中には、面白い感覚があります。

アタマだけで想像すると、カラダが勝手に動くのだから自分が自分でないような奇妙な感覚を想像するかもしれませんが、さにあらず。逆なんです。自分が自分である感覚がより強くなる。

スウィングするJAZZに身体が乗っかっているときのような。複雑なリズムはバラバラ感があるのだけど、そのバラバラ感が楽しく感じられて、かえって自分であると感じられるというか。

もっと似ているのは、セックスの感じです。アレにも、カラダが勝手に動こうとする「気配」があって、その気配に乗っかっていく(没頭する)と、より味わいが深くなります。逆に、気配を意識してしまうと没頭できなくなって、快感は表面的なところで終わってしまう。

味わいが深くなると、「自分」という感覚が高まったと感じます。〔こころ〕の中核は「自分という感じ」に他ならないはずですが、その感触は面白いことに、脳が覚醒しつつも各所の制御が外れたようなときに強く感じられるのです。


最後に、いくども繰り返しますが、説教臭い話を。

『孟子』が説く「不忍人之心」も同じ活元運動やセックスと同じ傾向の身体現象です。

井戸に落ちそうな子どもを見て、ハッとして、アタマで考えるまでもなくカラダが動いてしまう。その動作を駆動する源泉は〔こころ〕です。

音楽を聴いたりセックスをしたりというのは、人間としてのふつうの営みです。けれど、ぼくたち現代人の感覚からすると、非日常に近いという感覚、すなわち娯楽です。〔こころ〕のままに動くことができる状況が娯楽として認識されて、日常の活動(「暮らしを立てる」)から切り離されてしまっている。その分裂は当然のことで、切り離されている方が優先順位が高いのもまた当然だと思い込んでいます。

そして、時代が進むにつれて、この「当然」がますます大きくなっている。だから、多くの人が病むのだと思っています。


本来の〈健康〉の目的は、身体を〔こころ〕のままに動く状態にできるようにすることです。しかし、現代の認識はそうはなっていません。「当然」に奉仕することができる身体になることを【健康】だと思っています。病んだ人すら、恢復して【健康】を取りもどしたら、「当然」に奉仕しなければならないと考える。

それもこれも、言葉の秩序が乱れているところに大きな要因があるのだと思っています。


感じるままに。