『君たちはどう生きるのか』
遅ればせながら読んでみました。
これはオススメです。
もっと早く読んでみればよかった。
大人にもよく読まれているといいますが、うなづけます。
伝わってくるものがあります。
大人の(つもりの)ぼくにも。
いつものように屁理屈をこねてみます。
君たちはどう生きるのか?
どうってどういうどうよ?
現代のスタンダードな常識からすれば、「どう」は
何をどう選択するか?
というところになるでしょうか。
自由でありたい。
自由であるとは多彩な選択肢を確保すること。
多彩な選択肢を確保するには、どう生きればいいか?
本書にあるのは、しかし、そうした「どう」ではない。
そのことは、ぼくのような大人(オッサン)にも伝わるところがあるということからも傍証できます。
若者ならいざ知らず、ぼくのような年齢になってしまうと、これから先の人生にそれほどの選択肢はないわけです。どう考えても、ね。
選択肢があまりない人間に、多くの選択肢を確保するために「どう生きるのか?」とか問われたって、その答えがたとえどんなに立派でも、伝わるものなどあるはずがない。むしろ立派であればあるほど淋しい気持ちにさせられるでしょう。
でも、そうではない。
そのような「どう」ではありません。
本書の主人公はあだ名をコペル君と言います。
コペル君が目指しているのは「立派な人」です。
では、「立派な人」とはどのような人か。
「世間には、他人の目に立派に見えるように、見えるようにと振る舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの目にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にししまうものだ。僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。 だから、コペル君、くりかえしていうけれど、君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。」
このセリフはコペル君の人生指南役であるところの叔父さんのものです。
この手のセリフは響きます。
「大人」であればあるほど、他人の目に立派に見えるようにと振る舞ってしまっている自覚があるものだから。
ちと付け加えますと、ぼく自身はあまり立派に見えるようにと振る舞ったことはありません。けれど、それは、できなかっただけのことで、本当はできることならそうしたかった。できなかったから開き直って、立派に見えるように振る舞うのは恥ずかしいといったような大義名分を立てて、誤魔化していた。誰より自分自身を、です。
だから、立派に見えるように振る舞ってはこなかったけれど、その気持ちはよくわかる(つもり)。なので、叔父さんのセリフは(逆接的に)響く。
立派に見えるように振る舞っている人は、立派とは言えない。だとしたら、立派な人とは、どのような人か?
どう生きれば立派な人になれるのか?
あ、もちろん「立派に見える」ことがそのまま「立派な人ではない」ということではありません。本当に立派に見える人は、やっぱり立派でしょう。そしてまた、「本当」を見ることができる人も。
この「本当」がなにかというのもまた厄介な問いです。立派には見えないような人でも、本当は立派な人ということもありますから。
してみれば、「立派に見える」ことは「立派である」の必要条件ではない。それはむしろ十分条件のほうでしょう。
では「立派である」ことの必要条件とは何か。
「子どもと一緒になってはしゃぐことができること」。
私見ですが。
「立派な人」には幅があります。その幅が広ければ広いほど立派な人なわけですが、必要条件は(大人の感覚からすれば)「上」にあるのではなくて「下」にある。
上の叔父さんのセリフからすれば、『君たちはどう生きるか』が示さんとしている「立派な人」とは、ありのままの自分を見失わない「素直な人」でしょう。子どもや動物は(まだ)「ありのままの自分」しか知らない「素直な(だけ)」の生きもの。大人になってもまだ素直であるのならば、子どもや動物の素直さに感応することができるのが道理というものでしょう。
横道に逸れるようですが、ぼくの私見による「立派な人」の典型をご紹介します。何を隠そうアニメキャラです。
『Fate/Zero』より引用。
©Nitroplus/TYPE-MOON・ufotable・FZPC。
征服王イスカンダル(ライダー)です。
このキャラなら、子どもと一緒にはしゃぎ回りそう。
ライダーを登場させれば、その逆の素直ではなく「立派であるように振る舞っている人」も自ずと(『Fate/Zero』を観た人ならば)思い浮かぶはず。
セイバーは子どもとはしゃげなさそうです。
ライダーはセイバーに言い放ちます。
『王とはな、誰よりも強欲に誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する、清濁なく含めて人の臨界を極めたる者、そうあるからこそ臣下は王を羨望し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に我も王たらんと憧憬の灯がともる』
ファンタジーなアニメのことなので、話はどうしても大袈裟に“王”なんてことになってしまいますが、王を大人に、臣下や民草を子どもに置き換えて、もうひとつ臨界を極める云々を省いてみれば、これは「大人のありよう」と言えるものです。
立派な大人になるには、ありのままの自分をみうしなうことのない素直な人間でなければならない。だけど、かなり大変なことです。
大人になってまで素直であり続けるには勇気が必要だから。
『君たちはどう生きるか』では、勇気を挫くものとして登場してくるのが上級生のゲンコツです。コペル君は上級生に睨まれた友達を助けるために「壁になる」と宣言する。宣言したはいいけれど、有言不実行になってしまう。いざ、上級生のゲンコツが振るわれてしまうと、コペル君の身体は動かなかった。
アタマでは友情の大切さを理解していたはずなのに、その理解が身体にまで届いていなませんでした。
コペル君がライダーであったならば、躊躇なく身体は動いたでしょう。セイバーも身体が動くことは疑いない。が、両者とも動くけれども、動かし方が違います。
アタマの理解がそのまま身体の動きになる。
アタマが身体を服従させて動かしてしまう。
ライダーは前者。言うまでもなく。
セイバーは後者です。
上級生に勝る戦闘力を身につければ、どちらであれ身体は動くでしょう。でも、問題はそこではない。たとえ上級生を上回る戦闘力がなくても、どうやったら身体を動かすことができるようになるか。
強固な意志があれば?
ちょっと違います。
確かに強固な意志があれば動きはする。
けれど、動くのは強固な意志を持った者だけ。
強固な意志と勇気は似ているようで違う。
セイバーは強固な意志を持った者ではあった。
しかし他人を動かすことはできなかった。
『Fate/Zero』では、心ならずもセイバー(アーサー王)に付き従わざるをえなかったランスロット卿がバーサーカーとなって怨みをもって登場してきます。
一方でライダーに臣下たちは、心から付き従う。ライダーには勇気があるから。
コペル君は身体が動かなかった。
けれど、動かなかったということを思い知ることで、次は、自分の身体だけではなく他人の身体をも動かすことができるようになったと思われます。
「思われます」というのは、そこまでは『君はどう生きるのか?』には描かれていないから。
「立派な人」とは、子どもや動物の素直さに巻き込まれる人であり、同時に他の者を素直さでもって巻き込む人。大人になっても素直さを保ち続ける勇気でもって。
「君たちはどう生きるのか?」という問いは、ここを問うているのだろうと思います。
巻き込む人になろうと生きるのか。
「正しさ」を指し示す人になるのか。
巻き込まれない合理的な「選択」するのか。
巻き込むのも巻き込まれるのも、アタマで考えるならば不条理です。その不条理を越えたところに「立派」というものがある——というのが本書のメッセージではないでしょうか。
ちなみに。
そのように「立派な人」はフィクションではありません。実在します。
代表的なのは、この方でしょうか。
(https://grapefruitmoon.info/ より拝借)
ガンジーが立ち向かったのは、上級生のゲンコツどころではありません。大英帝国の植民地支配に立ち向かった。どれほどガンジーに強固な意志があったとしても、巻き込む力なくしてはインドの独立はなかった。
ガンジーの手法はアヒンサー(非暴力)です。
アヒンサーは常識的な感覚では非常識に思えるけれど、『君たちはどういきるのか』を読んだ後ではきっと意見は違ってくるでしょう。
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