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「主人 スプリング」と書かれた衣装箱
毎日、住宅地にある小さなデイサービスに母を送迎している。
デイサービスの隣には古い家がある。
大きくも小さくもなく、2階建て、瓦屋根、トタン張り外壁は昭和の装い。
築50年は経っているんじゃないかな。
もう長いこと空き家で、ずっと前から売りに出されているんだそうだ。
雨どいには雑草の蔦がからまっていて、庭木も伸び放題。
家の裏にある物置の引き戸は、外れて傾いている。
広がった蔦はブロック塀のすき間から外へと伸び続けている。
そんな家ではあるけれど、窓から見える屋内には、家具が残されたままになっていて、かつての生活が垣間見える。
アルミサッシではなく、焦げ茶色に塗られた木枠の窓の内。
磨りガラスの向こうは脱衣所かな。
窓辺に置かれた古いパッケージの洗剤がぼんやりと。
台所と思われる窓辺には、重なった金ザル。
隣の部屋には洋服ダンス。
その上に、いくつかの紙の衣装箱が重なって。
昔はスーツや制服を仕立てると、あんな衣装箱に入ってきた記憶がある。
「主人 スプリング」
その衣装箱のひとつにだけ、黒く大きく奇麗な字で書いてあるんだ。
ひとつだけハッキリと書いてある。
特別に大切みたい。
毎日その家の横を通ると、「主人 スプリング」が目に入る。
毎日私は、想像してしまう。
あの「主人 スプリング」の箱の中には何が入っているんだろう。
やっぱりスーツかな?
いくつかの衣装箱の中、特別っぽく見えるあの箱。
きっと、とっておきの服が入っているんだろうな。
想像は続く。
この家にかつて住んでいた主と、あの字を書いたであろう婦人は
どんな人だったんだろう。
この家で、どんな暮らしをしていたんだろう。
どんな時にあの箱からとっておきの服を出したんだろう。
この家には、どんな笑顔が、どんな喜びが、どんな悩みが、どんな涙があったんだろう。
この家で、二人はどんな人生を送ったんだろう。
ある日、その古い家の周りに足場が組まれていることに気が付いた。
次の日になると、洗剤も、ザルも洋服ダンスも家の中からなくなった。
「主人 スプリング」の箱もなくなった。
窓が外されて、脱衣所の奥にある風呂場の水色のタイルがむき出しになっている。
そうか、この家、なくなっちゃうんだな。
その次の日、周りにシートがはられ、家は見えなくなった。
家を囲うブロック塀のすき間から生えている蔓は
何だかもがいて逃げ出そうとしているみたいだ。
そのまた次の日に、とうとう家はなくなった。
蔓の絡まったブロック塀も撤去されてしまった。
何日も経たない内に、ここに家が建っていたことが不思議なくらいまっさらな空き地になった。
あれから、ひと月は経ったかな。
今はまだ空き地だけど、いつかまた新たな家が建ち、新たな住民が新たな暮らしを始めるんだろう。
ここにかつてあった家のことは忘れ去られて行くんだろう。
そうやって、人の営みは続いていくんだろう。
私はまだ毎日、家があった空き地の横を通りながら、思い出している。
衣装箱に書かれた「主人 スプリング」
想像の中の住民をね。
私もいつか、そんな風に、誰かの想像の中の1人になるのかもしれない。
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