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頭の中にもう一人いる

職場で「物事を冷静に見る力がある」という評価を得た。

そんなわけないのである。

えっ?そんなわけないのか?

いや、そんなわけない。

漢文以来の反語自問自答を繰り返している。
この時点ですでに冷静ではない。
情熱と冷静の間だと、だいぶ情熱寄りであると自負している。

なぜ「冷静」だなんて評価を得ることになってしまったのか。

それは多分ここまで書いたことを全て脳内で喋っているからである。

昔から独り言が多かった。

それはほとんど無意識で、頭に浮かんだことを一人で何やらうにょうにょと言っていたような気がする。

小学生のある日、クラスメイトからだったか家族からだったか、「独り言、多いよな」と指摘されたことをきっかけに、それを頭の中に引っ込めることになったのだが、
引っ込めたところでそれが減ることはなく、あれから20年程たった今もいつも頭の中を独り言が駆け巡っている。

それはつぶやきであり、ボケであり、ツッコミでもある。独り言は多種多様であり、一人ノリツッコミをすることもあれば一人ミルクボーイをしていることもある。

そうなると自然と、違うことをしながら違うことを考えるという器用なことができるようになり、それはいずれもう一人の自分となり、一つの客観視となった。


例えば、
面倒くさい仕事がある。それは誰かがやらないといけない。自分じゃなくてもいいが、やらないといけないことに気づいてしまった。

本心は全くもってやりたくない。気づかないことにしていたらいずれ誰かがやるだろうし、やらなかったところで自分が怒られる訳でもない。

でも頭の中で、いやでもこれ今やっとかなしんどいで〜、と別の自分が言ってくるのである。
パッとやっちゃって、別のことに集中した方が仕事回るで〜、なんて言って。

余計なことを言うなよ、と思うが実際そうなので、じゃあ私やっちゃいますね、となる。

そういうことが積み重なって、物事を冷静に見る力がある、と評価されたのだろうか。
表に出るのは、
面倒くさい仕事にいち早く気づいて、何も言わずサッと終わらせた
という部分であり、ここまで書いた頭の中でのもう一人との駆け引きは表に出ていない。

それに相乗効果を生み出すのが、生まれ持った無愛想な真顔である。
伊達にボーっとしているだけなのに「睨んでる?」と肉親に言われ続けて30年近く生きていない。
多分考えていることが顔にもあんまり出ないんだと思う。

そんなこんなで、冷静に物事を見る力がある、という評価を得た私は、なんやかんやで職場でちょっと頼りにされる存在になってしまった。
全くもって想定外の計算外なのだけれど、この驚きも全ての頭の中の話なので、お願いされたことを文句も言わずやってくれる人間がそこにいるだけなのである。

これがいいことなのか悪いことなのかは、ちょっとこれから審議して行く必要がある。

もちろんそれは自分の頭の中だけの話になるのだけれど。

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