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涙と星と

何か言葉や音楽に触れたときに、急にどどっと涙が出てくる、ということ、ときどきありませんか?

自分でもなぜここで涙?と思う瞬間。涙のワケはすぐにわからないのだけれど、どうもきっとこれは自分にとって大事ななにかと関わっている、ということだけはわかる瞬間。。。

それらの断片的な涙モーメントはなるべく覚えておいて、推理探偵よろしく、いつか「全部のピースがつながった!」となるときを待つことにしています。

最近の涙モーメントは、北欧デザインについての本を読んでいたときでした。その本の中で、北欧の樹木信仰についての章で紹介されていた、フィンランドの児童文学作家Z.トペリウス作の『白樺と星』(桑木務訳)、その引用部分を読んだとき。

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最近あったもうひとつは、相方がある晩、ふいっと久しぶりにギターを弾き出して、坂口恭平さんの「休みの日」をうたってくれたとき。聴いてたら涙がドバッと。

これはずいぶん前ですが、デンマークの心理療法士の方が書いた、HSPと呼ばれる資質の人々についての本を読んでいたとき、そういう人が「過度に刺激を受けたときにするお勧めの活動」のリストの中に「彫刻を彫る」という項目があって、それを目にしたとたんにどっと涙があふれてきたこともありました。

あのときは、涙の理由が解きほぐれたんだっけ、とブログを読み返してみたら、流れ星の話が書いてありました。グリーンウッドワーク(生木の木削り)の講座に出た帰りに、日帰り温泉に寄ったときのこと。

露天風呂の湯船につかってぼうっと、ものづくりのいろんなスタンスについて考えて、木工家や職人とはまた違うものづくりのスタンスもあることを思い出してたら、スーッと、流れ星が、天頂からななめ45度くらいまで、長い尾を引いて流れていきました。

びっくりした。と、同時に、初めてグリーンウッドワークでのものづくりを教わった、(イギリスの)マイクさんの森での日々でも、最終日の夜、、森の縁にある広い原っぱでに出て、ひとりで夜空を見上げてたときに、流れ星がひとつ流れたこと、思い出しました。

あの時も、今回も、不器用な自分に場違い感を感じてたけど、星が流れた瞬間に思ってた、「まずはやってみる」「自分なりに工夫していく」「とにかくやり続けていく」というスタンスの人からはやっぱり元気をもらえるなあと思いました。

もちろん、木工のように刃物などの道具を使う手仕事だと、道具の使い方はやっぱりちゃんと教わることが大事だと今回もしみじみ体感しました。体をどう使って刃物を支えるか、材を支えるか、どう刃物を使いこなすかによって、まるで世界が違ってくるんだなあ、と。。。

だからちゃんと教わって習うことの意味はある。。のだけど、なんというか、それと職人魂とは、別物だと感じていて、職人魂に触れると、なぜか自分はものづくりにかかわっていてはいけないような気分になるのが、興味深い。。

「いいものをつくれる」技術がないと、つくる資格がないかのような気分、というか。。。

開き直って、しろうと魂で好き勝手にやっていこう、と思うのだけれども……。

でもそもそも、グリーンウッドワークはスウェーデンのslöjdのように生活道具を身の回りの森の恵みで自分でつくる、そういうたしなみのような、万人に開かれた営みだと思ってきていて、だから別に職人さんのようになれないからといって、職人さんを目指せないからといって、やってちゃいけないわけじゃないね、と思ってもいて。

なのにこの「場違い感」や「人並みにできないことの悲しみ」に毎回こんなにゆすぶられるのはなんなんだーと思いつつ、デンマークの心理療法士の方が書いたHSPと呼ばれる資質の人々についての本を読んでいたら、そういう人が「過度に刺激を受けたときにするお勧めの活動」のリストの中に「彫刻を彫る」という項目があって、目にしたとたんにどっと涙があふれてきました。

あのときの涙モーメントでは、そうか、なんだかしらないけど木削りをしたくてしょうがないのは、そういう理由だったのか。。?と気づけたのでした。大勢の人の中にいるとき、いろんな物音や気配の渦中にいるとき、時間的に焦って作業をしているときに、自分がおもいのほか憔悴しているらしいこと。。木削りや手仕事は、自分にとっては、コーピングの手段だったらしいことを。

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そしてさらに思ったんです。

ただ木を削る、それがやりたかっただけだった?

ふと、先日たずねた鹿児島のしょうぶ学園(知的しょうがいのある方たちの支援施設)で、木工をしている利用者の方々のこと、思い出しました。鑿と材を渡して、お皿を彫ってもらおうとすると、どんどんどんどん彫り進めて底に穴があいてしまうまで止まらなかったりする、そして穴があくとご本人はうれしそうにしていたりする、と聞きました。

一心に彫り進める、その活動に「快」がある。。活動そのものに意味があって、結果としてお皿が完成するかどうかは、活動そのものにくらべたら二次的なことだという境地。。

そして、こういうものづくりのベクトルもあってよいこと、こうやっていくなかで結果としてできあがった「なにか」は、また別の意味で「いいもの」になる、工夫次第で「すごくすてきなもの」になることを、しょうぶ学園の活動からはびしびし感じます。

思い出すと、元気が出てくる。ありがとうの気持ちです。

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こうやって、涙とか、流れ星とか、そのときどきにあらわれるサインを読みとりながら、これまでの人生、なんとかかじ取りをしてきたように思います。

グリーンウッドワーク(生木の木削り)を続けていきたいのも、それについてこうやって発信したいと思うのも、木の文化と森への気持ちが大きいのもあるけども、深いところで、自分が木削りに助けられてきた、とはっきりわかってきたのも大きいです。

(木々との個人的な関わりについては、まだほかに、「サイン」をもらった瞬間がいくつかあるんですが、それらは普通にお話するにはちょっと怪しすぎる気もするので、、またいつか。)

『白樺と星』での涙モーメントの理由は、まだ今のところぼやんとしています。そのうちにはっきりするのかな。。。

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ぐり と グリーンウッドワーク:https://guritogreen.com/












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