『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』から受け取ったもの
制作が発表されてからずっと楽しみにしていたので、「もし実際に見て刺さらなかったらどうしよう……」という変な心配をしながら公開初日に見に行った結果、いい方向に期待を裏切られて想像を超える最高の映画でした。
製作者の皆様ほんとうにありがとうございます。
あと、「自分には物凄く刺さったけど世の中的にそんなことなかったらどうしよう……」の不安は起こる間がなかったぐらい、みんなが鬼太郎の映画の話をしている世界になっていて、ただのいちオタクなのにめちゃくちゃうれしい。
ちゃぽちゃぽ遊んでた水たまりが気づいたら大海原になってた。
キャラデザが発表されたあたりで父二人はオタクに人気が出てくれそうだな~と思っていたけど、気が付けば田中ゲタ吉まで見つかっていて仰天してます。最高です。
(映画から直で青春時代にいったら温度差すごそうだけど大丈夫です!?)
今のところ6回見ましたが、見るたびに気付きがあるので上映中は通える限り通うと思います。たぶんこれ書き終わらないうちに7回目に行く。
ムビチケたくさん買っておいた自分を褒めたい。
これを書き始めた日から最寄りの映画館のレイトショー枠が無くなっちゃったので、平日に見たくなったら仕事のあと隣の町まで行くことになりそうです。
(隣町まで7回目見に行ったし、明日から最寄り映画館のレイトショー枠復活してる!やったー!!)
104分の中の情報量がすごくて、体感3時間ぐらい”よいもの”を浴び続けたはずなのに2時間経ってないの??うそやろ??みたいな感覚になるんですよね毎回。
設定もろもろの胸糞は本当に胸糞なので、何回見ても感情が胸やけを起こしたみたいになってしまうんですが、胸糞として最高なので”よいもの”という感じ。
摂取量でそろそろ頭がパンクしてしまいそうなので、映画から受け取ったものを1度吐き出しておこうと思います。
※私が勝手に感じただけの、こじつけに近いものも含みますので、製作者様の意図とは異なる内容もあるかと思います。
※ここからいろいろなネタバレがあります
いろいろ:映画の内容、パンフの内容、関係していると思われる他作品の内容など
「忘れないで」
全体を通して、終盤の廃村シーンでの時ちゃんの台詞である「忘れないで」というのが、伝えたかったメッセージなのかなあ……と思いました。
映画の物語の中はもちろん、この作品が水木しげるさんの生誕100周年記念作品であるということもふまえて、いろいろな「忘れないで」が込められているなあと。
時ちゃん……
時ちゃんについては作中の台詞そのままですね。
体を奪われて、未来も奪われて、70年間狂骨としてさまよい続けて、その果ての願いが「忘れないで」なの、切なすぎるよ。
沙代さん……
沙代さんの「忘れないで」については、パンフレットのキャストさんインタビューで書かれていた「悲惨な最期を水木に見せつけて水木の記憶に残ろうとする沙代の復讐」というのがもう……そこまでしたのに水木は狂骨に襲われて記憶を無くしてしまうというのが、本当につらい。
村から脱出して倒れていた水木が救助されるシーンで気にかけていたのはゲゲ郎の妻のことだと思うけど、一緒にトンネルから出ようとした沙代さんとのことも混ざっていてほしいという希望。
女の子と市松人形
序盤に電車内で咳き込んでいた女の子とそのおやごさん、あのあと哭倉村の地下で「工場」と呼ばれる場所に並んだベッドの上で変わり果てた姿になっていたわけですが、そのことを繋ぎ合わせるキーアイテムとして使われていたのが市松人形でした。
人形が作中で最初にでてくるのは、冒頭の現代のシーンで記者が落下したあとバンッ!とアップで映ってからコテっとひっくり返るところで、初見のときは「あ~うんうんこういうお化け屋敷的なびっくり要素もね、いいよね」でしかなかったのに、2周目以降は作中で廃村に久しぶりに訪れた人間である記者や、映画を見ている視聴者に対しても自分の存在に気付いてほしい、時ちゃんと同じ「忘れないで、ここにいたよ」という女の子の思いがあの人形を立ち上がらせたのかな……とか考えてしまって、胸がギュっとなるポイントになってしまいました。
「見えんけど、おる」
トークショーのレポを見てから気にして見るようにしたら、まさに「見えんけど、おる」という存在感。つまり、「見ようとしなければ見えないけど、見ようと意識すれば見える」ぐらいの見え方で登場している妖怪たちの姿がだんだん見えるようになってきて、作中でゲゲ郎と交流するなかで妖怪の存在を認めたことでだんだん姿が見えるようになったという水木の追体験っぽいことができる作りになっているのが楽しくて周回が捗っちゃいます。
各々で見つけてほしいのでどのシーンに居るとかは書きません。たぶん私もまだ全部は見つけてないと思うし。
劇場からの帰り道や家に帰ってからも、ふとした時にもしかしたらそこらへんにいるかもなあ、いたらいいなあと考えていたりで、「見えんけど、おる」存在たちのことを意識するようになったと感じて、水木しげるさんが愛したこういう感覚を忘れないでほしいというメッセージもこめられているのかなあと。
戦争の、いろいろなこと
私が水木しげるさんの作品にはまったきっかけが、ちょうど5年前に京都の龍谷ミュージアムで開催されていた「水木しげる 魂の漫画展」でした。
開催期間中に関西に行く機会があり、「鬼太郎の原画とか見れるかな♪」と軽い気持ちで寄ったら戦記漫画のほうにやられてしまったという経緯があるため、今回の映画の中での『総員玉砕せよ!』が下敷きになっていると思われる戦争のシーンたちはめちゃくちゃ刺さりました。
今でこそ水木さんといえば戦記物だと思っていますが、この漫画展に行くまでは、自分がこどものころに流れていたゲゲゲの鬼太郎3期の再放送や4期、悪魔くんなどのアニメ、妖怪図鑑などがまあ普通に好き、ぐらいで、作者の水木しげるさんもかわいいおちゃめなおじいちゃんみたいなイメージしか無く、隻腕であるということすら意識したことが無かったんですよね。
水木さんのかかれる戦記ものは、敵兵との銃撃戦などのシーンももちろんありますが、それ以外で亡くなられたかたの描写に重きを置かれているように感じていて、たとえば映画で登場したヤシの木を運ぶシーンで丸太の下敷きになった兵は、腕の骨折からのデング熱でそのまま亡くなったり。
はたまた、旧日本軍のよくない考え方で、「玉砕した」と報告された部隊で生き残ってしまったら、「敵前逃亡」だとかで将校は自決、下の兵士たちはちゃんと死ぬために再突入みたいなことをさせられる。
映画の中の水木はおそらく再突入中の爆撃で左半身に重症を負いつつも命は助かって、そのまま終戦を迎えたのかな。
戦地で「戦死」したと聞くと、敵との戦闘中に銃弾や爆撃で亡くなったという状況を想像しがちですが、実際は丸太運び中の怪我だったり、川を渡っているときに音もなくワニに食べられたり、マラリアなどの感染症にかかったり、空腹で死んでしまったり、戦闘中の死であってもその戦闘が戦略的に意味のないような突入であったり、そういう亡くなり方もひっくるめて「戦死」なんですよね。
戦争のそういった現実がたくさんえがかれた『総員玉砕せよ!』のラストは、再突入後に辛うじて命があった主人公がふらふらと立ち上がったところを敵兵に見つかりとどめをさされて命を落とし、誰にも見つかることなくそのまま白骨化――という流れなんですが、命を落とす際の最後のことばが
というもので、これを忘れさせない風化させないために水木しげるさんが魂を込めて書き残したのがこの『総員玉砕せよ!』という作品だと思うので、今回映画の中にこの作品のシーンも入れ込むことで、戦争でさまざまなかたちで亡くなった方たちの思いや、戦争は本当に良くないということを忘れないでほしい、というメッセージになっているのかなあと。
電車のシーンで水木の背後に憑いていた日本兵たちも、生き残った水木に自分たちのことを忘れてくれるなよという思いで憑いているのかなあと思いました。
水木が野心ギラギラなの、自分はあの地獄から生きて戻れたんだから、死んでいった仲間たちのぶんまで何がなんでも強く生きねばという思いもあるんじゃないかな。
水木さんの作品たちのこと
各種の「鬼太郎」シリーズはもちろん、先程あげた『総員玉砕せよ!』や、その他の水木さんの作品や水木さんご自身の人柄などからそこらじゅうに「おっ」となる要素が散りばめられていて、元々好きな人はそれを感じて「あれを読み返そうかな」となるし、この映画から水木さんの他の作品に興味をもってふれられた方は「映画のあれってここから来てたのかな!?」という発見ができそうだし、色んな方が作品を読み返す、知らない作品を読んでみるきっかけになる映画だなあと思います。
パンフレットの原口さんのインタビューで「水木の作品が忘れられることなく、いつまでも皆さんの中にあり続けてほしい」とありましたが、本当にそれを叶えらる力のある映画だなあと。
ほかにも出てきそうだけど、ざっと思いついたのはこんな感じです。
観終わってしばらくしてからも寝る前だったり移動中なんかに映画のことを考えてしまうので、なによりもこの映画のことを忘れられない状態になってるかも。
ほんとうに……すごい映画だ……。
大した文字量じゃないのに書き出すのにすごい時間かかっちゃったので、魅力がありすぎるキャラクター達のことやこのシーン好き!とかについてはまた別でアウトプットしたいと思います!!
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