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山田耕司句集「不純」の鑑賞

俳句同人誌「円錐」編集人、山田耕司さんの第二句集「不純」を読みました
私は詩心がなく、幻想的な、飛躍の大きな句はよくわからないのです
詠めないし、読めません
山田さんの代表作の一つ

焚き火より手が出てをりぬ火に戻す

も、これまでよくわかりませんでした
けれど、この句集の句はなぜかどれも面白く、そうして目にしたこの句はどうしてだかとてもよく伝わってきたのです
それは、句に実景が見えたからだと思います
実景から把握、そして表現という段階を解釈、鑑賞の手がかりにできたのだと思うのです
それは、作者が実景を詠んだということではありません
あくまでも、私には句に実景が見えたということです
本当は現実を離れた感性と想像力、言語感覚に生まれた句なのかもしれません
このようなアプローチは、本来は限りないイマジネーションに遊ぶ句を自分の限られた経験の中の実景に落とし込むこと、異次元に放り込まれるはずの句を日常の異化で納めてしまうこと、かもしれません
その恐れを抱きつつ、自分に可能な方法で句に寄り添う道を探し、いずれはもっと広い視点で鑑賞できるようになったらいいなぁと思いました

改めて、実景があるという前提で鑑賞します

焚き火より手が出てをりぬ火に戻す

焚き火に焼べられているものは、枯木です
それが一本、火から出ていました
それが手に見えました
枯木ですから、痩せ衰えた骨の透けるような手に見えたでしょう
その手を火に戻す
手と見紛うたものが痛々しくあればこそ、火に戻す行為に眠る人の手を布団に戻すような優しさを感じました

もう一つ
焚き火から出ていた手は火だとも考えられます
枝か紙を走って炎を離れた一筋の火を見つけました
その火を火に戻します
枝で打ったり足で踏むなど、火を消そうとすることもできたと思います
戻すという行為には、出ていた火に対する共鳴、共感があり、人と火の一瞬の交歓が見えるように思いました

どちらも、「をりぬ」が手のありようを伝えており、それに応える「火に戻す」行為を深めていると思います


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