「小さき麦の花」 これは愛の映画なのか
「小さき麦の花」を観てきました
宣伝でもコメントでも、これは「愛の映画である」と言われています
けれども、これが愛の映画だったとしたら、あの結末が語るものはなんだと思いますか?
ヨウティエとクイインは互いの家族から厄介払いとして見合いをさせられます
意志や感情を表すことなく言われるがまま、のろのろとただそこにいる二人は、その場においては愚鈍にも見えました
やがて、二人は暮らしの中で、自分の言葉で自分のことを語り合い始めます
その姿を見て、ヨウティエはその内気さゆえに(その性格も望まれずに生まれた農家の四男という環境が強いたものかもしれません)、クイインは体の障害のために(診察も治療も受けていないという意味では、この障害もまた環境に作られたと考ることもできます)、虐げられ、貶められ、全人格を否定されてきたのだと分かりました
結婚後も二人は、たびたび弱者として他者に奪われ、失います
けれども、そのたびにより大きなもの、より良いものを自らの手で獲得していきました
新婚の頃、ヨウティエはクイインをとても大切に扱っていました
クイインを荷馬車に乗せ、自分は歩くヨウティエは、村人に冷やかされて「クイインも乗せて、荷物も乗せて、自分も乗ったのではロバが大変だ」と答えていました
語り合い、家を追われれば二人で新たに建て、麦畑だけだった耕作地をじゃがいも、葉物、トウモロコシ畑まで、耕作用のロバだけだった家畜を鶏、豚の飼育と生活を広げていく中で、ある日ヨウティエは仕事のできないクイインをひどい言葉で罵ります
とてもひどい言葉でした
けれど、それはヨウティエがもうクイインを憐れんでいないということでした
ヨウティエのクイイン、ロバへの優しさは憐れみだったのです
それは自分と同じ弱いものへの憐れみであり、ヨウティエは何より自分を弱く劣ったものとして憐れに思っていたのです
クイインと仲直りして帰宅する時には、荷馬車には山のような麦とクイイン、それを曳くロバにはヨウティエがまたがっていました
ヨウティエはもう、自分もクイインもロバも憐れむべきものとは思わなくなっていました
ある日クイインが亡くなります
ヨウティエは生活の糧の全てを手放し、ロバも解き放ち、静かにベッドに横たわります
その時、外にロバの鈴の音が聞こえました
ラストシーンにはヨウティエの姿はありません
ヨウティエの視点で映像が展開するからです
一度、ロバの顔が見えるので、ヨウティエはロバにまたがっているのでしょう
村人の手で解体される家をヨウティエは(私は)見ています
村人はヨウティエは貧窮者に与えられた町の共同住宅に行くのだと思っています
これが愛の映画なら、クイインへの愛に殉じて、ヨウティエは村を去るのでしょう
けれど、私には農作業の合間に交わされた二人の会話が思い起こされるのです
クイインの足跡に種を植えるヨウティエが「まるで足の種を植えているようだ」と言うと、クイインは「足が地面から生えてくるのではかわいそうだ。どこにも行けない」と答えます
「植物と違い人間はどこへでも行ける」と言うクイインに、ヨウティエは「けれど農民はどこへも行けない。土地に縛り付けられている」と答えるのです
どれほど虐げられ貶められても、ヨウティエは農民でした
クイインとの暮らしで得たものは、農民としての自己の回復、獲得だったのです
ヨウティエはそのアイデンティティを手放そうとしているのです
自由とはこれほどに凄絶な決断なのだと、初めて知りました
「人間はどこにでも行ける」と言ったクイインは病院のある市に行くこともなく亡くなりました
クイインの「どこへでも行ける」という言葉がヨウティエを動かしたのなら、やはり愛の映画なのでしょう
これほどの喪失・慟哭が自由との対価であるとしたら、そうして得た自由はヨウティエとクイインの愛にもまた等しいのかもしれません
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?