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遊びの社会学2022・実践記録No.1

2022/04/19
自由選択の「遊びの社会学」、12名受講者が集まった。

今日は
・学びの案内2022
・私の自己紹介
ライフヒストリーデザイン曼荼羅・遊びフォーカスver.
・リフレクション

【学びの案内2022】
・この講義のねらいを共有
→「この中で今まで一度も遊んだことがない人はいますか?」
笑いが起きた。
そんなことあるわけないじゃん、ということだろうか。
つまり、人間は遊ぶ存在で、人間を捉え直す視点として「遊び」って有りだよね?ということが共有できた感じがした。

・リフレクションをすること
講義の中でつまらないことや、難しいと思うこともあるかもしれないけれど、それも一つのリフレクションになるから、「難しかった」と書くのではなく、何が難しかったのか、一歩踏み込んで、自分と対話をして書いてみよう。
→実際に今日だされたリフレクションは自分と向き合って書かれているものが多かったと思う。

・対面で友人がいる意味のある授業にしましょう
せっかく対面で行う授業だから、友達が面白そうにしているものに乗っかるのも良い。状況に埋め込まれた(レイヴとウェンガー)中で感じること、考えることも学びだと思って、横に人がいることを感じ、耳を傾けながらやっていきましょう。

・「社会学」って何をする学問だと思いますか?
そもそも社会って何か?から考えないといけない。
国も社会だし、人が3人集まると社会だという人もいる
→なるほど、と頷く人多数。

多くの人が自明とみなしている常識的な意味の層を超えて新しい意味の層を発見する
(井上俊『悪夢の選択』より)
→まだ具体的によくわからない様子だけれど、「ただ良い話聞いた〜」という授業ではなく、自分が「社会学をする」授業にしたいので、リフレクションをする中で違う層から(メタ的に)考えるようにしていきましょう、と話すと、スタンスが伝わったような頷きがあった。
そして、一つの注意事項として「真面目と遊びを対立したものと捉えると視野が狭くなるので、この対立軸を一度脱ぎ捨てましょう」と伝えた。
この話はリフレクションシートの中で、新しい発見だったと書いてくれた学生が居た。


【ライフヒストリーデザイン曼荼羅】
昨年度自由学園を退職された成田喜一郎先生のライフヒストリーデザイン曼荼羅を「遊び」にフォーカスして書く時間を取ってみた。(HPにとぶと白紙の曼荼羅あるのでぜひ15分ぐらいで書いてみるのオススメです)
自身のこれまでの遊びと照らし合わせながら授業を進めたいと思っていて、KJ法を用いて遊びのイメージを書いてもらったり、対話からははじめたり色々試みては来たものの、しっくりきてはいなかったところ、昨年度の講義の終わり頃に、この曼荼羅を遊びにフォーカスして書くということを思いついたが、昨年度は時間が足りずできなかったので、今年は頭に持ってきた。
15分曼荼羅を書く、5分で解題を書く、15分3人グループで共有するという短いワークショップだった。


→やってみると、思っていた以上に問いが生まれていることに気が付く。
例えば、
「習い事は遊びのようにやっていました」
「習い事はたくさんやっていたけど、どれも面白くなかったので書いていません」という2人の話を聞いているだけで、
・習い事を遊びだと思っている人とそうではない人がいる
・面白いと「遊び」だと思っている
というように、気づきが出てきたので、すかさずこの対立を拾って
「遊びと遊びではないの境界線はどこにあると思うか?」という問いを共有してみた。
すると、学びと遊びの境界線や、生活と遊びの関係は?とか、息抜きと遊びは違うのか?など、境界線が曖昧な部分が色々と見えてきた。

→また、過去から現在を通して見てみると、幼少期は体を動かして遊んでいることが多く、今はインドアでお金をかけて遊んでいることに気がついた人もいた。
これは実際に人の発達のセオリーと重なるものだった。
さらに地方生は地元にいた時と東京に出てきた時で遊び方が変わったことにも気がつき、遊びが自分の育ちとリンクしているということに気がつけたというのも、大きな収穫だったように感じた。
「私」は研究の対象になるということが少しわかったかもしれない。


【次回に向けて】
曼荼羅を書く中で出てきた「遊びってそもそも何?」ということを広げて、進めていきたい。

【所感】

「遊び」と聞いて「面白そう」ということで集まった人が多いと思うので、その期待を持ちつつ、本当の意味で「面が白くなる」「新しい光に照らされる」ような授業をしたいと、色々試行錯誤を重ねている授業なのだが、あまりにもそこらじゅうに溢れている「遊び」を捉え直すというのは、13回の授業ではなかなか難しさもある。今回はその試行錯誤の中で「ライフヒストリーデザイン曼荼羅」をやってみたが、自分の中の「遊び」を見える化し、共有することで、無意識だったものに光を当てる作業がどういうことなのか、ということが実際に感じられたように思う。

あとは12人というちょうどいいサイズと広すぎない教室が今年度は隅々まで声が届いているような感じが良い。




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