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「反出生主義」が(一応)矛盾だらけのご都合主義ではない理由-[諏訪大介 2021]への応答-

はじめに

このnoteの概要

 ちよさき氏のnoteを読み、いまだ日本の一般メディアにおいて反出生主義に関わる議論が成熟していないという感想を持った。本稿では、少しでも反出生主義に関する議論が発展することを願い、以下に引用する諏訪大介氏のnoteへの批判を行う。

事前知識
 特別な知識は必要ない。

[諏訪大介 2021]ではBenatarの議論が誤解されている

喜び(+)と苦しみ(-)の合計について

人生(シナリオA)において、喜び(+)が苦痛(ー)より多くあった場合、反出生主義の論理が一気に破綻する事は、ベネター氏も認めています。

もし存在する事の苦痛が多大だと感じていない場合、その人は「存在しなかった方が良かった」とは考える事ができません。※意訳
"...if one thinks that the harm of existence is not great, one cannot infer from that existence is preferable to non-existence." (p.48)

当たり前ですよね。人生に喜びが苦痛より多いと感じている場合、普通は「生まれてきて良かった」となります。([諏訪大介 2021]より引用)


 以上のように述べ、その根拠に[Benatar 2006 p.48]における記述を挙げている。しかし、これは文脈を無視していると同時に、そもそも誤訳である。(もし、[諏訪大介 2021]による解釈をするならば、"...if one thinks that the harm of the existence is not great, one cannot infer from that that non-existence is preferable to existence."でないとそもそも英語としておかしくないだろうか?Ais preferable to Bとは、AはBよりも好ましいという意味であり、existence is preferable to non-existenceとは、「存在した方がよかった」であって、「存在しなかった方がよかった」では無い。尚、[諏訪大介 2021]の本文中の[Benatar 2006 p.48]の引用部分にthatが一つ欠けているがこれは、軽微なミスである。)

However, it must be stressed that one can endorse the view that coming into existence is always a harm and yet deny that the harm is great. Similarly, if one thinks that the harm of existence is not great, one cannot infer from that that existence is preferable to non-existence.([Benatar 2006 p.48]より引用]
しかしながら、ここで強調すべき事は、生まれてくる事が常に害であるという主張を支持しつつ、同時にその害は重大ではないとも主張できるという事である。似た事として、もし存在する事の害がそんなに重大ではないと考えるとしても、存在する事は存在しない事よりも好ましいと導くことは出来ない。(拙訳)

  「生まれてくる事は常に害」という事を前提としても、「生まれてくる事の害悪の程度」に関する議論はあり得るという事を[Benatar 2006 p.48]においては主張されているのである。
 「『人生には喜びよりも苦痛の方が、通算で遥かに大きい』と断言できるのは、どんな論拠が挙げられているか、知ってますか?」と、[諏訪大介 2021]では述べられているが、元々、Benatarはそのような事を言っていないのである。前述の通り、「生まれてくる事の害悪の程度(How Bad is Coming into Existence)」が、[Benatar 2006 chap.3]で議論されているのは事実であるが、それは、[Benatar 2006 chap.2]の結論である「生まれてくる事は常に害である」という前提を踏まえての、「生まれてくる事の害悪の程度」が一体どれほどであるか?に関する議論であり、何も、「喜びと苦痛の合算をして、差し引きマイナスであるから生まれてこない方が良い」とはBenatarは主張していないのである。(このことは、[Benatar 2005 p.48 para.3]における議論を読んでも理解できると思われる。「針の一刺しの苦痛以外は幸福で満たされた人生」であっても「生まれてこない方がより良い(生まれてくる事は害)」とBenatarは主張しているのである。
 なお、筆者のnoteのはじめの部分に、[Benatar 2006 chap.2]で展開された基本的非対称性に関する議論を簡易にまとめているので、ぜひ参考にしてほしい。

みんな生まれてきた方が良かったと言っている
 
[Benatar 2006 p.64]でのWHY SELF-ASSESMENTE OF ONE'S LIFE'S QUALITY ARE UNRELIABLEの項において、ポリアンナ効果を誘導する心理的な傾向性を3つ挙げ、なぜ当人が生まれてきた方が良かったと(その時点で)思っている事だけでは、出生を肯定し得ないかについて論じられている。[諏訪大介 2021]ではこの部分に関する言及がなされずに、一方的に、「反出生主義の根底となる論拠の足腰は、生まれたての小鹿のようです。」と断ずるが、これはアンフェアではないだろうか?

"ご都合主義"1について

生きてるのですから生存意欲がありそれを尊重すべきなのは人道として至極当然なのですが、「意欲の正体」を考えればダブルスタンダードで矛盾してる事は明らかです。言うまでもないですが、「生存の意欲」の最も根源にあるものは「種の保存」である事は紛れもない事実です。生きてもいいけど、その生きるそもそもの根底理由の否定、つまりレストランに行っても良いけど何も食べちゃダメみたいな話しです。
 また、「個人の生存に対しての意欲(≒種の保存)」は子作りさえしなければOK。「個人の集合体の生存に対しての意欲(≒種の保存)」はNG。個人の意欲を認めて、個の集合体になった途端同じ意欲を認めない理由は何故なんでしょうか?木は育っていいけど森は枯れろというようなことで、一人の「生き続ける意欲」は人道的理由から尊重すべきで、家族・社会・人類の「生き続ける意欲」は無視する事は非人道的でないという正当性はどこにあるのでしょうか?([諏訪大介 2021]より引用)

 まず、「生存の意欲」の最も根源にあるのは「種の保存」であり、後者を否定しつつ、前者を肯定する事は、ナンセンスであると指摘されている。これには二つの反論が考えられるだろう。
(A1)我々の「生存の意欲」はそもそも、「種の保存」だけを目的としていない。
(A2)家族、社会、種といった全体ではなく、個人それぞれが最も尊重される価値観は広く一般的である。(全体主義に対する個人の尊重)

 まず、A1について、「生存の意欲」は、確かに種としての人類からみれば、その保存のために存在していると言えるだろう。しかし、「生存の意欲」は、そうした種の目線を離れて、それ自体として尊重される概念である。仮に、「生存の意欲」が「種の保存」の為の手段に過ぎないのならば、生殖機能を失った人間や、そうでもなくても重度の病気や障害を持つような、一般にもう「種の保存」に資する事が出来ない人間の「生存の意欲」を尊重することもナンセンスとなるだろう。「生存の意欲」は単なる手段ではなく、尊重されるべき目的であるという事は広く受け入れられている事実である。
 次に、A2について、家族・社会・人類の「生き続ける意欲」は無視する事は非人道的でないという正当性は、Benatarによると、それによって個人が被害を受けるという事実にある。家族・社会・人類の存続したいという欲望によって、「生まれてくる事は常に害」であるにも関わらず、生まれてこさせられてしまう個人の立場をBenatarは尊重しているのである。確かに、個人を犠牲にして、集団的な目的を達成するという立場もありうるが、それはまさに全体主義的な発想であって、それに対してより個人が尊重されるべきだと考える人々も多いだろう。
 また、[諏訪大介 2021]で挙げられている、「反社会的企業に勤めるAさんが、その違法性や悪辣な労働環境を理由に、だれもその会社に勤めるべきではなく、会社自体もつぶれるべきと主張するが、他方でAさん自身は給料や労働環境の良さ(仕事も楽)を理由に会社を辞めない」という事例を挙げているが、これがいかなる意味で比喩として成立しているのかは理解しがたい。そもそも、事例内でAさんの勤める企業の労働環境が実際に良いのか悪いのかが意味不明である。Aさんが「労働環境は酷いし従業員も害悪しかいない」と言いつつ、同時に「仕事は楽だし給料は1千万円超え」と言っているのは確かに意味不明だが、それは単にAさんの発言が「企業の労働環境」に関して矛盾しているからである。それと反出生主義にどのような関連があるのだろうか?おそらく、「生まれてくる事が害悪である」を「その企業に就職する事が害悪である」となぞらえ、「今は待遇が良いので辞めたくなるまで働く」を「生き続ける意欲は尊重すべき」となぞらえているのだろうが、曖昧な企業の労働環境とは裏腹に、存在する事の害悪の度合いについてBenatarは明瞭な答えを出している。すなわち、「生まれてくるに値する(life worth starting)」基準を満たさない程度には悪いが、「続けるに値する(life worth continuing)」基準を満たす程度には悪くないのである。前者と後者の差異に関しては、[Benatar 2006 pp.22-23]を参考にしてほしい。なぜ、前者の基準が後者の基準よりも厳格であるかについて、事例をまじえて詳細に説明されている。

"ご都合主義"2について


生存(経済活動)している限り、間接的に出産する動機を提供している事実は全く否定できないはずです。つまり、あなたが今日買った洋服の工場労働するため、食べたご飯の産地の農場のため、乗った車のパーツ製造のため、どこかの発展途上国で働き手の欲しさがゆえにまた一人の「恵まれない子供」が産まれる事に関与している可能性は非常に高く、もちろん、1つ1つはごくわずかな関与ではありますが、無関係とは絶対に言えない事は、少し想像力を働かせれば簡単に自覚できるはずです。では、直接的な子作り(自分が子供を作る事)はNGで、間接的にそれを助長する事がOKである理由はなんでしょうか?いくつの間接的な原因に関与すれば、直接に子作りした事と同様の罪になるのでしょうか?([諏訪大介 2021]より引用)

  まず、確かにBenatar型反出生主義者にとって、子供を作ることはまさにその子供に対する加害であるので、子作りしたことは罪になるだろう。しかし、上で言われるような間接的な原因になることが累積すれば、直接に子作りした事と同様の罪になると考える事は、非常に難しい。例えば、包丁が殺人の道具として使われる事はあり、包丁メーカーはその犯罪の道具となりうる包丁を沢山生産するが、すると包丁メーカーに勤める人間は間接的に殺人に寄与したと言える。40年間、そうした包丁メーカーに勤務した従業員は、では通算して殺人に値する罪を背負う事になるのだろうか?
 そもそも、反出生主義者でなくとも、どこかの発展途上国で働き手の欲しさがゆえに「恵まれない子供」が産まれる事は悲しむべき事態であろう。さて、先進国の70歳に対して、その人生の70年間で累積した間接的な「恵まれない子供に不幸な生活をさせた事」への罪を非難する事は妥当であろうか?
 社会で発生するありとあらゆる犯罪や悪行に対して、上記のような間接的な原因を全てカウントして通算すれば、おおよそこの世のすべての人間は罪を背負う事になるだろう。では、犯罪や悪行を非難しておきながら、生存するにあたって間接的に犯罪や悪行を助長することは、矛盾しているのだろうか?少なくとも、Benatar型反出生主義者にのみ、生存にあたって不可避な出生への間接的関与を非難する事は難しいように思われる。
 余談であるが、法律上の殺人幇助、すなわち、殺人罪の幇助犯が成立するためには、「すでに殺人の意思のある者の実行を容易にする」ことが必要であり、仮に、出産幇助となぞらえるならば、「すでに出産の意思のある者の実行を容易にする」ことが必要となるだろう。ところが、[諏訪大介 2021]における事例では、そうした「すでに出産の意思のある者」というよりは、「出産を(間接的)に促し、出産の意思を持たせる」事例であるように思える。そうすると、本来[諏訪大介 2021]で取り上げるべきだった事例は、「殺人幇助と出産幇助」ではなく、「殺人教唆と出産教唆」であろう。(無論、上記の事例では、教唆の故意も、教唆の因果関係も刑法の要求する基準を満たしていないので、仮に出産罪が存在したとしても、出産罪の教唆犯が成立することは無いだろう。)

"ご都合主義"3について

著書の中では反出生主義が及ぼす暗い影に関しては正々堂々と隅々まで対峙してるベネター氏ですが「次第に終末に近づく世代たちの苦痛」については卑怯なまでに、掘り下げが甘いです。どう考えてもその影響は一世代に留まるはずがなく、仮に彼の論じる「段階的絶滅」(少しずつ世界人口を減らしていく)を計画通り速やかに遂行できたとしても、数世代に渡る現状より遥かにおぞましい無法地帯、それこそ「餓死、病気、政権による虐殺など組織的暴力、戦争、殺人やレイプなどの個人犯罪、そしてそれを受けた多くの自殺」が蔓延するのは確実です。彼の言う生やさしい「苦痛」だけで済むと思う人は、危機的状況における人間の本性について何も知らないか、その事実から目を背けているだけと言わざるを得ません。([諏訪大介 2021]より引用)

  まず、「餓死、病気、政権による虐殺など組織的暴力、戦争、殺人やレイプなどの個人犯罪、そしてそれを受けた多くの自殺」が起こることが、本当に確実であるか疑わしい。Benatarの提唱する段階的な人口減少計画を適切に遂行した場合、統治機構の崩壊などはその末期までは(具体的に人口がいくらの時であるかは不明確だが)発生しないように思われる。現在75億も存在する人類が、最終的に世界人口100万人を切る事態に至ったとしても、絶滅に至るまでの食料やエネルギーのが充実して困らない状況を確保さえできれば上記のような悲劇は発生しないだろう。(もちろん全員が反出生主義に同意する状況は想像しがたいので、現実的ではないのであるが。)危機的状況における人間の本性は、確かに恐ろしいほど残酷であるのだが、ここで問題となるのは、そうした危機的状況は計画的準備によって回避できるのではないかという事である。
 また、人類は遅かれ早かれ絶滅するのだという事実についても触れられていない。それがいつになるのかは明らかでないが、この太陽系や、そもそも宇宙にも寿命が有る以上(宇宙論的論争は存在するが、ここでは熱的死を想定しよう)、永遠に(文字通り、無限にという意味である)人類は存続し続けるという見方は楽観的に過ぎるだろう。すると、その絶滅の最終局面においては、やはり最後の世代特有の苦しみで満たされることになるだろう。そうすると、結局事態は、絶滅が早いか遅いかという話になる。むしろ、計画的に人口を減少させていた分、そうした終局期特有の苦しみを味わうことになる人類はBenatar案の方が少なくなる。また、計画的に準備していたことによる終局期の苦痛自体の軽減も、Benatar案では期待できるのである。[諏訪大介 2021]における表現を借りるならば、反出生主義者でなくとも、いずれきたる絶滅の苦痛を子孫に委ねるという意味で、「多大なる苦痛を、後世に我々は強いている」のである。さて、このように反出生主義に関わりなくとも、単に我々が絶滅の苦痛を味わいたくないがために「代償を後世に払わせても許されるのか」について、どう答えるべきだろうか?いずれにせよ、これは反出生主義者特有のジレンマではないのであり、従ってBenatar型反出生主義者への反論としては不適である。

その他の論証について

反出生主義者はペットを飼っても良い
 前述の通り、Benatar型の反出生主義者は、人生が通算で(差し引き)でマイナスであると考えてはいない。生まれてこないシナリオと、生まれてくるシナリオを比較すれば、前者の方がより優越しているというだけであって、生まれてきた命のQOLに関して言えば、なるべく充実した生命を送るべきだと考えているのである。従って、

その子供や犬からして見れば、どうせ通算で苦痛の方が圧倒的に多い一生なのであれば「親(飼い主)の愛」なんて知らずに生きて死んだ方が「親(飼い主)との死別」(※どちらが先に死ぬとしても)という絶望的な苦痛が不可避で加算される一生よりマシじゃないんですか?([諏訪大介 2021]より引用)

といった主張はその前提から誤解の上に立っている。なお、仮に通算で(差し引き)マイナスであったとしても、反出生主義者は別に「親(飼い主)との死別」が何かとてもない苦痛であるとは主張していない訳で、なぜ「親(飼い主)として過ごす人生の喜び」を「死別の苦しみ」が「差し引き」されてマイナスであるとBenatar型反出生主義者が考えていると想定しているのかは判然としない。

「ベネターなんて知らないし。私は私なりの反出生主義なだけだから。」に、逃げても良い
 確かに、Benatarは洗練された分析哲学的な手法を用いて反出生主義を訴えているが、彼の基本的非対称性に関する議論はかなりの批判を受けている。Cioran、Schopenhauer、仏教......など、世には様々な形で反出生主義者は存在するのであり、Benatarはそうした議論を網羅して自身の反出生主義を展開しているのではない。従って、Benatarの議論を知らないことが、ただちに反出生主義を語る資格を喪失させるものではないのである。

反出生主義と自殺促進主義について
 実際、筆者個人の見解としても、Benatar型の反出生主義は自殺促進主義を含意すると考えている。詳しくは、筆者のnoteを参照してほしい。しかし、少なくともBenatar本人の理解では、反出生主義がただちに自殺を促進しないのである。

「これからの人生、喜びよりも苦痛の方が遥かに多大であり、またそれが救いよう無い事実である事を確定的に認識したならば、生きながらえる意欲などどこから湧いてくるのでしょうか?([諏訪大介 2021]より引用)

 上の問に答えるならば、その前段が前述の通り「喜びと苦しみの通算がマイナス」であるという誤解に基づく主張なのである。

参考文献

「反出生主義」が矛盾だらけのご都合主義である事から一生逃れられないこれだけの理由(諏訪大介 2021)
Better Never to Have Been(Benatar 2006)
伊藤真ファーストトラックシリーズ3 刑法 (伊藤真/伊藤塾 2018)

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