合唱のむずかしさ~自分、そして他者とつながる
8回目にあたって。
予定は未定で。子どもの頃からまずは沿革を、と思ってはじめましたが、それはやめて、「今、これだ」と思った、このテーマを綴ります。
コロナ禍で、この2年、“歌系の趣味”のかかわり方にも変化がありました。細かいことはテーマには関係ないので割愛しますが、現在所属している合唱団は2つ。その練習に思うように参加できない状況になっています。
毎回練習に参加することではぐくまれる趣味
合唱という活動は、一般論として、成人の合唱団は、自由業や公務員が多い、という傾向はあるそうです。いや、リタイアした世代とか、定職についていないグループはもちろん、という前提なのですけれど。
これは、練習の性格があらわれていると思うのですが、練習に「いけるときにいく」では、活動に限界が出てきます。典型的な日本の働き方で、会社につとめて、会社の時間に拘束されて、その中の貴重なオフ(会社に拘束されない時間)を、趣味である合唱の練習にあてるのもたいへんなのに、それでは不足を感じてしまうのが、合唱という趣味の練習です。だから、時間を比較的くみやすい、自由業や公務員、リタイヤした方々が中心となるわけです。
特に最近は、合唱団の人数が減ってきました。ハモネプもあって、アンサンブルといわれるジャンルのそれがむしろ多くなってきています。すなわち、少人数の活動です。そうすると、ますます「一人抜けたら練習がなりたたない」という状況が際立ってくるわけです。
だから、「練習に思うように参加できない」というのは、実は、すごく重いことになってきます。自分が上達しない。それ以上に、まわりに迷惑をかける。全体の向上を妨げてしまう。
先週の金曜は、5週間ぶりに練習にいけた、という状況でした。そうすると、5週間の間に、私の声がない状態で、サウンドが育っています。そこで、どのように、まざっていくか。その前に、おやすみさせていただいた5週間の間に、技術的なこまかな指示も指導者からは出ています。それをまずは把握することが最初の作業になってきます。
トラは実は邪魔なだけ
人数が少ないからと、本番直前に引き込まれて参加する方がいる演奏会があります。いわゆる「トラ」(エキストラから派生した言葉)といえばかっこいいのですが、私は、実は、それが大嫌いです。
長い時間をかけてつくってきたサウンド。たしかにたとえば、「あー、もう少しアルトが出てくれれば」などと思うことはありますが、だからといって、アルトに「トラ」がきて、それで解決するかといえば、そんな簡単なものではありません。もちろん、超絶的な技術の差があって、その違いまで感じ取ってあわせてくださるような方がトラとして参加してくれるときはいいのですが、素人合唱団のトラなんて、せいぜい、比較的短期間で音がとれて、そこそこ声がでかいだけ。そんな人が多いのが実際のところ。でも、音がとれて声がでかいのが、かえって邪魔なのです。
現時点では、自分がその状態になっていないだろうか。それが、実は、気になるところ。ただ、幸いにして、今所属の合唱団は、間近の本番がありません。だから、むしろここは、やるだけのことをやって、ダメならば、指導者に指摘していただければいい。そんな風に望むしかないのが現状です。
トラにならない生き方~自分とも他者ともつながる
さて、そういう状況って、「生き方」の話しの中では、普通にないでしょうか。
なにか新しい団体に参加するとき。なにか新しい方と接点をもって、対等の立場として事業を展開していくとき。
技術だけでは片づかない(もちろん、技術もないことが多いのですが)。ましてや、想いだけではなにも解決しない。
そんなときは、新しい団体をできる限り知ること。新しい方をできるかぎり知ること。そして、その中で、自分を殺すことなく、自分がどう活かせるか、ということを考えながら、接近、いや、一体化していく。そんな作業は、普通にないでしょうか。
そのためには、自分の技量を含めた、自分を客観的にきちんと把握していることが前提になります(技術があるのに、謙遜で否定することも、技術がないのに、自信だけでいくことも、客観性を欠いています)。その上で、関係する団体や関係する人を十分に把握する。本当の自分とつながって、かつ、他者とつながっていく。
しみじみ、これが大事だな、と。
そんなことも、急遽おぼえるこのごろなので、沿革の流れをやめて、今思うことを綴ることにした、今回の記事でした。
画像は、本文中の5週間ぶりに参加できた合唱団の、2019年演奏会のゲネプロの写真です。また、このような時を持てますように、という気持もこめて。
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