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サークル「じぶん綴り方」の今月のテーマ「ずっと密かに疑問だったこと」

参加しているサークル「じぶん綴り方」は、毎月2つのテーマが出ます。今月のその一つ「ずっと密かに疑問だったこと」についての記事です。いきなりですと、サークルの参加していない方には違和感がある書き出しだと思ったので、記載しました。

感心を持たれた方は、ご参加ください(じぶん綴り方ご案内ページ)。

ずっと密かに疑問だったこと

ずばり、

人はなぜ人を殺すのか。

ウクライナの情勢と、このテーマの時期がかさなっで、あらためてこれを思い出してしまいました。
でも、あまりにも重いので、このお題の発表から半月たってもまとまらず。
いや、1年たってもまとまらないと思いまして、まとまらないまま投稿してしまいました。

目の前の仇ならば百歩ゆずって…かもしれない

少なくとも、なにか自分におよぶ危害が予想され、それに対抗する、というのは、まだ想像できる余地があります。殴ってきたから殴り返したとか、罵声をあびせられたから、それを否定するより強いことばの暴力をふるったとか。

でも、戦争がその一つです。恨みがない人を殺せと命ずるという論理は、どうしても私はわかりません。自分のやりたいことを邪魔する奴、くらいの意味はあるかもしれませんが、それで、その相手の命を奪うバランス感覚ってなに?。ましてや、戦争を指示する国のトップ(そのとりまき)って、どういう精神構造しているのか。わたしはずっと理解できないでいました。

殺せるからこそ殺してはいけない

私のプライベートな記事で、私がファンだと公言しました谷山浩子さんが、9.11をイメージして作ったという楽曲があります。その歌詞は、なんども

人は人を殺せる そう作られた
(作詞・谷山浩子「ゆりかご」より)

というフレーズが何度も出てきます。殺せるように作られたのは、殺すという行動選択をしないことを期待されているからではないかと。

やはりこれだけだとわかりづらいので、リンクをおいてきますが、Youtube ではなく、ぜひ、アルバムを買ってください。

実は、現代は、自分を殺せる、という意味ではなかろうか

殺人や戦争で人を殺すのはもちろんあってはいけないことですが、自分をみつめることなく自分らしさ、自分そのものを失うのは、自分という人を自分の意思次第でいつでも殺せるいう意味もあるのかもしれないと最近感じています。

いずれの「殺せる」も、なぜそれをするのか。

それは、ずっと疑問に思っていることの一つであることは間違いありません。


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冒頭画像は、みんなのフォトギャラリーで「反戦」で検索して出てきた中で、イメージにあったものを選びました。提供された方、ありがとうございます。

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