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【甲陽軍鑑】甲信国境・瀬沢合戦

甲陽軍鑑品第二十ニに書かれている合戦について紹介します。

瀬沢合戦

天文11年(1542年)2月中旬、信濃国の大名たちは、甲州の武田晴信公に対抗するために緊急の会議を開きました。集まったのは、小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曽義康の各大名です。彼らは、武田晴信公の勢力拡大に対抗するための協議を行い、その結果、甲府に出陣することになりました。

家臣たちからの提案

信濃勢侵略対策のため甲府には武田家の家臣である板垣信形、飯富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守などが集まり、戦略を練りました。これらの家臣たちは、一つの書状を作成し、武田晴信公に戦略的な提案を行いました。

書状の内容

◯駿州義元公への援軍依頼
書状の最初には駿州の義元公に対して援軍依頼が記されています。義元に出馬してもらうか、そうでない場合は、1万人の援軍を提供してもらうように求めています。

◯海尻城の開放と防備の強化
海尻城を開放し、小山田備中と小宮山丹後守を呼び寄せることが提案されています。これにより、甲斐国の中に敵をおびき寄せて決戦で敵を壊滅させる作戦です。

◯戦略的な布陣と待ち伏せ戦
敵が諏訪軍と村上軍に分かれて境目まで進攻してきた場合には、戦略的に布陣し、武川口には典廐様、若神子には武田信玄の旗を立て、境目で待ち伏せ戦を行うべきとされています。

この書状には甲州側の足軽大将や武者奉行、旗奉行たちは詳細な戦略を検討し、最も良い手立てだとして家老たちから申し上げたものです。

駿州義元との関係

駿州義元への加勢の依頼に関しては、五年前に父・信虎公を駿府に追放した際に義元公を頼ったことがあるため、今回の加勢を依頼するのは避けるべきだという意見もありました。この事を通して義元に甲州をふみしずめられる可能性があるためです。そのため今回は援軍を頼みませんでした。

信玄の意向

信玄は家臣たちからの提案を受けて結論をだします。「小さな国や少数の兵で大国や強敵に立ち向かうことが重要だと聞いている。それによって勝利を収めた例が、弓矢の作法だ。信濃から甲府に仕掛けられることで、敵は我々の動きを見守り、こちらは待つ味方だ。特に我々は地の利を生かして戦っている。過去五年間の戦いで敵は何度も勝利を失い、諏訪、木曽、小笠原、村上の四人が敗北した。誰が大将になるべきかをも決めかねている状況である。こちらは戦術で勝利することが疑いがない。私に任せて欲しい」

情報戦

信玄は敵勢の情報を得るため信濃国から召し抱えてある間者の70人のうち優れた30人を選びました。これらの間者の家族を人質として、甘利備前に10人、飯富兵部に10人、板垣信形に10人をそれぞれ預けました。その間者30人を村上方、頼茂方、小笠原方にそれぞれ10人ずつ配置しました。これらの間者を用いる事で情報収集を行いました。

信濃勢の動向

敵は四人の大将のうち、信州と甲州の境にある瀬沢という場所に陣を構え、三日間馬を休ませた後、甲府へ向かうために準備を整えました。

信玄が甲府の堀を広げるつもりだという情報を得て、信玄は信濃勢が大軍で来るだろうと考えて籠城するつもりだと予想して、迎え撃ってくることはないと考えていたからです。

しかし甲府の城を囲めば夜戦に備えるべきだと敵と味方の両方が思っていました。

武田軍による迎撃

信州の晴信公はすぐに侍大将や足軽大将を召集し、時間を無駄にせずにすぐに攻撃を開始するよう命じました。敵が分かれて進軍した場合は味方も人数を分けて対応する必要があります。   

敵の数は一万六千で、武田軍は八千でした。
味方一人に対して敵が二人という計算となりこちらは地元での戦いであるから度々合戦の経験があります。

その中で、諏訪の頼茂と村上義清を撃破すれば、木曽、小笠原の両大将は逃げるだろうと晴信公はすぐに攻撃を開始し、武川辺りに陣を取った。  

夜半に行軍を開始し、翌日の明るくなった卯辰の刻に戦を開始しました。

信濃勢は甲州勢は一部隊も出撃することはないと油断をしていたため有利な戦況となりました。

戦いは一日中続き、九度戦が行われ、諏訪勢は飯富兵部、村上勢は甘利備前、板垣信形、小笠原勢は郡内小山田左兵衛が戦い、御旗本は崩れた味方を支援しました。 

この戦いでは原美濃守が活躍したとされています。

天十一年王寅初旬三月九日
甲州勢からしかけたこの合戦はに終わりました。

信濃勢を討ち取った数千六百二十一名、その頭帳をもって勝どきをあげましたが味方も負傷者、死者が多数あった。飯富兵部・甘利備前も負傷しました。

信玄が二十二歳のときでした。

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