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わたしの読む久保田成子と私

 見るってなんだと思いますか。目の前にりんごがあったとして、それを目でとらえたときに、これはりんごだなって思うことでしょうか。それとも、それをりんごだと認識したうえで、このりんごはよく熟していて赤いなあ、などと思うことでしょうか。

 先日、国立国際美術館で久保田成子展を観に行きました。少し日をあけてこの記事を書こうとしていて、わたしは何を書こう、と少し迷いながら書きます、書くことと思います。その逡巡の中で、過去を思い出すこと以上に、過去を現在からどう見るのかを、自分の中ではっきりさせていきたいと思うのです。

" 観る人が画面の前に座り続けなければならない上映形式よりも、ヴィデオの時間から緩やかに解放され、より主体的に干渉できる映像作品を目指したのです "

 これは久保田の言葉ですが、わたしはこの言葉で言おうとしていることがとても大切なもののような気がするのです。わたしが今まで意識していなかったものに触れている。それはつまり、画面を越えるということです。

 迷いながら書こう、と思いつつも、いつも書いているようにやっぱり気になる作品をそれぞれ拾い上げながら書くことになりそう……。けどやはりわたしは迷いながら考え書きたいのです、

河, 1979-81


  久保田いわく「自然の中で水が演じる役割は、わたしたちの人生でヴィデオが果たす役割になぞらえることができる」。

 この作品には河が存在します。この作品は河なのです。河には頭上からつるされたヴィデオの画面がそのまま映り込んでいます。水面がゆらゆらと揺れると、映った画面もゆらゆらと動きます。

 ヴィデオという情報は、水の粒子を媒質としてわたしに伝えられる。そこでわたしは改めて当たり前のことを発見します。今までわたしは空気を媒介していろんな情報を得ていたのかと。もちろんわたしは河の中にいるわけではないので、水の中を伝わったヴィデオはさらに空気に伝わり、それをわたしが見ているわけですが、なんというのでしょう、いつも見ている景色に別の眼鏡をはさんでみると、こんなにも見え方が変わるのか、と驚いたのです。わたしは水を見ながら、ヴィデオを見、そしてほんとうに見ていたのはゆらぎでした。河のゆらぎ。美しいという言葉を、まことに漢字で表わす「美」というものを感じた気がします。

 ぽちゃん、という音がさらにわたしの意識を河の底へと沈めていきました。沈みながら静まっていく。とても静かな時間でした。わたしはそのとき美術館にいませんでした、わたしと河という作品が一緒になって別の宇宙空間である"世界"を構築し、その中にわたしはいたのです。ずっとここにいたい、と思うのは、河がわたしと一緒に居てくれるからなのでしょうか。それとも河がわたし自身になっているからでしょうか。とにかくずっと留まっていたかったです。

ナイアガラの滝

 久保田はナイアガラの滝について、自我から解放された気分にしてくれるものだと言っていたそうです。ところで最近わたしは白洲正子の本で無我という言葉と出会いました。

 神に祈れば神の姿がみられるものを、芸術の姿がみられぬ筈はありません。鑑賞とは観察でもなく道楽でもなく、勿論教養のためでもなく、芸術をほんとうにみることではありませんか。そしてその唯一の方法は、神に祈るが如く、自我を滅して、無我の三昧に入ることなのではないでしょうか。 白洲正子『美しくなるにつれて若くなる』ハルキ文庫, p.115

 久保田の「自我から解放された気分」というのは、この無我という状態なのではないかと、ふと思ったのです。

  この作品の後ろには夏に撮影されたという滝の音が響いています。それぞれヴィデオには、春夏秋冬のナイアガラの滝の様子が映されています。まさに久保田の記憶から切りとって、その思い出を自分でふたたび構築した、記憶のふしぎなきらめきがあります。個人の体験や感覚にむすびついた記憶は、唯一無二の風景で、感覚も、風も、においも入りまじった風景を復元することで、この世にふたつとないきらめきとなるのだと思います。そんな、わたしでは体感しえない唯一無二を、この作品は教えてくれるのです。

 わたしはなにかに打たれてしまって、この作品をみながら震えていました。あとから紡ぐことばよりも、会場でわたしが衝動的に書いた感覚こそが正直だと思います。以下に記します。

 この作品の鏡の部分には、自分が映ります。自我から解放させてくれるもの、それなのに自分がはっきりと映るのです。自我から解放されるというのは、自分がいなくなる、というよりは、自分と何かが一体となって溶けて、別の何かになる、ということなんじゃないでしょうか。

 ナイアガラの滝は全く知りません。けれども、この感覚はわたしの記憶へと刻まれ、わたしは以前いたわたしとは別のわたしへと移りました。この作品は、きっと忘れません。

デュシャンピアナ:ドア,1976-77

 フランスのことわざに「ドアは開いているか閉まっているかどちらかしかありえない(Il faut qu'une porte soit ouverte ou fermée.)」というものがあるそうです。中途半端な状態はいけない、という意味だそう。久保田はこの言葉に挑戦しようと、開くと閉まるのあいだにドアを作りました。

 開いてるでも閉まってるでもないドアをくぐると、中のヴィデオにマルセル・デュシャンがいます。デュシャンはたばこをくゆらしながら「アートは蜃気楼だ」と言います。久保田にとってデュシャンはとても特別な存在だったと思うのですが、わたしにとってデュシャンは何者でもありません。しかし、ドアをくぐりぬけたこの空間において、このヴィデオのデュシャンはなぜか自分と近しい存在のように感じられるのです。そして、こころにずっしりとした凪が訪れる。

 この作品の空間は狭いです。ヴィデオがあるところはトンネルのようにさらに狭くなっていて、空間から出るためにはそのトンネルをくぐり抜けなければならない。わたしは夢中になって何度もトンネルをくぐったり出たりしました。夢中になった。心には波がなく、正でも負でもない感情、無に近いわたしであるのに、なぜか夢中になってしまったのです。わたしはトンネルをくぐり抜けている間、ただ生きていました。正にも負にも振れない、どちらともつかない感情、それは中途半端と形容することもできましょうが、無の状態、つまりただ生きていることにもなるのではないか。感情を捨てて生きることにすべてを振り切ってしまったのです。それはまさしく無我夢中で生きることでした。

まとめ

 わからない。わからないものだらけです。この展示の感想を書くわたしは、いろいろと足りないものがあると思いました。自分の感覚をことばにする力が、まだまだ足りないと思いました。

 久保田さんの作品はとてもふしぎで、見終わったあとに、後ろを振り向かせない力があるんです。わたしはもう、これを見なくていい、記憶にすべて感覚として刻まれたし、わたしは今いるわたしを越えていきたい、そういう想いがはっきりとあったのです。

 いくつになっても、進むことを止めない人間でいたいな、と思いました。わたしの次の目標は、画面を越えることです。今まで自分が作ってきたものはすべて画面の中に留まっていました。そこから一歩飛び出してみたいのです。

 余談ですが、ドアの作品をみたときに『こころの家』(キム・ヒギョン文、イヴォナ・フミエレフスカ絵)という絵本を思い出しました。

 絵本のなかに、こころの家というものがでてきます。久保田のドアの作品は、このこころの家と似ている気がしたのです。家は久保田のこころそのものなのでしょうか。