彼女は解放された

りんごジュースで口を潤しながら、ベランダで土の乾いた植木鉢を見て見ぬフリをする土曜の昼下がり。いつも自分を甘やかしているなと気づき、放置したnoteを更新してみる。

高校生の頃から存在を知っている女の子がいる。彼女は同じ町に住んでいて、自分の母親とその彼女の母親が習い事教室で繋がっている。ときどき母伝いにその子の話を聞かされていた。
話に聞く彼女はとても感受性がつよく、繊細で、よく体調を崩しては学校を休む子だった。彼女は創作活動をしていて、絵本をつくっているそうだ。その作品の一部を見せてもらったりもした。

彼女も大学生になり、都内の美大に通うことになったが、やはり体調を崩して休みがちであることを聞かされていた。

ある夏、家族で別荘で過ごしていると、彼女の家族が遊びに来た。お互いの別荘地が近く、たまたま同じ時期にきていたので母親同士で約束してたようだ。彼女もくる予定だったけど体調が悪くなって家で休んでいるとのこと。この頃から彼女のことが少し気になりはじめ、彼女がある店に委託して置いてもらっていた絵本をこっそり買いに行ってみた。

そこの店長さんとお互いの母親からそれが彼女に伝わったようで、彼女とSNSで繋がることになった。数年後、ひょんなことから彼女が参加しているアウトサイダーアートの企画展に誘われて観に行くことになった。

ど田舎にある企画展会場から徒歩10分はあるバス停まで、彼女は迎えにきてくれた。はじめて会う彼女はとても華奢で、繊細を絵で描いたような子だった。その10分間で他愛もない話をいくつもした。

「海と川どっちが好き?僕は川が好き、穏やかで落ち着くから。」

そんな会話が彼女曰くすごい良かったらしい。彼女は「共感覚」という特殊な個性をもっており、様々なものに色がつくという。その会話には色が見えたそうだ。展示会場では、アウトサイダーアートについて、とてもわかりやすく丁寧に説明してくれた。たまに織り交ぜてくる彼女の洞察に、自分の2段、3段深くものごとを考えているのだなぁと感心させられた。

後日、家が近所ということもあり、彼女と夜のお散歩をした。夏の終わりの程よい気温で、落ち着いて話せそうな気がしたからだと思う。

いろいろ話した。”おさんぽ”というカワイイ響きには似合わないような時事ネタで、朝まで生テレビみたいな白熱した議論をぶつけあったりもした。このときの会話は本当に新鮮で楽しかった。数時間があっという間だった。そこで体調を崩しがちな彼女をほんの少しだけ理解できたような気がした。

彼女はすべてのことに真摯に向き合い、本質を見抜く努力をし、深く深く考えている。だからこそ悪意のないトゲに傷つき、曖昧なものに悩み、深く悲しんでいる気がした。当時、僕はあまり「言葉」を信じていなかった。表面的なツールとしか認識していなかった。そんなものより、行動で人をみるものだと思っていた。けれど、「言葉」を正しく使うことがとても重要なんだと彼女から教わった。

それからも、お散歩やごはんに数度行った。彼女の価値観を尊敬し、相手を傷つけないよう言葉を選んでいる姿勢に好感を持った。と同時に、自分がいかに何も考えていないのかを知ることにもなった。

仕事が忙しくなったりと、なんだかんだで会うこともなくなり、2年に1度くらいの頻度で、彼女の参加している企画を観に行ったり、イベントで販売している雑貨を買いに行く程度になった。

そして数年後、彼女は結婚し、出産した。あるイベントで会った時に、彼女は席を外してくれて、僕にこう話してくれた。多分、僕の何かを見透かしていて、わざわざ伝えてくれたものだと思う。

「まさか自分が結婚して、出産するなんて夢にも思わなかったけど、子供が産まれたらとても身体が軽くなって、生き易くなった。そんなタイミングは誰しも必ず訪れるものなんだと思う。」

高校生の頃から10年以上、生きづらさを抱えていた彼女は、解放されとても輝いていた。

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