要約 アリストテレス『ニコマコス倫理学』

〇目的手段連関の極地は幸福であり、それは善でもある。
〇善とは徳=アレテーに即して活動するエネルゲイア=現実態のことである。
〇徳は知的徳と倫理的徳(→エートス)に分かれ、両者の共同が行為を生む。
〇知的徳はさらにソフィアとフロネーシスに区分される。
〇個別具体的な状況において、エートスとフロネーシスの共同によって「善なる行為」が生まれる。
〇エートスが共同体に依存的である以上、善は友愛=フィリアに局限される。
〇ただしソフィアにおける「観想=テオリア」が第一の幸福だとされる。

すべての行為は何らかの目的意識と不可分であり、その目的も手段化して一つの連関をなす。その最終地点―目的に位置するのが「幸福」であろう。アリストテレスは「善」を幸福と結びつけることで、単なる運の良さやプラトン的イデアに解消しないままに善を捉えようとした。そしてその最高目的は当の存在者の本分をいかんなく発揮すること(徳)であろう。徳=アレテーに即して活動するエネルゲイア=現実態が人間の善である。幸福とは人間生命の開花そのものである。
 徳はロゴスを司る知的徳とロゴスにしたがうことのできる倫理的徳に分かれる。知的徳は事象の必然性を理解する知恵(ソフィア)と必然的でない事柄を慮る思慮(フロネーシス)に分かれる。倫理的徳は我々の「人柄」に関わる。
 特に即したはたらきも「善い行為」と「観想(テオリア)」に区分される。「善い行為」は、思慮と倫理的徳すなわち人柄との共同作業として結実する。思慮が個別具体的な状況で「~すべし」と判断し、人柄の徳が欲求・感情といった心の構えをもってそれに「~したい」と応答することで、「善い行為」が生まれるのである。
 人柄=エートスが共同体における訓練で身につくものである以上、連鎖的に「善」もある種の相対性・集団性を帯びる。つまり「友愛=フィリア」の特殊性である。この難点をアリストテレスも自覚し、最終的には、「閑暇(スコレー)」において、知的徳におけるソフィアによって観想的な生活を送ることがより優れた善=幸福であると説き、ここに一定の普遍性を確保している。

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