虚無を乗り越える能力主義の捉え直し

フランス語を軸とするサードプレイスをオンライン上に作るために仲間とプロジェクトを回している。その障害となるのはむろん「フランス語の求心力」であり、大学における第二外国語の中でプレゼンスを失いつつあるフランス語がどれくらい人を引きつけるのかという問題がある。これに関しては研究上の課題となっているのだが、僕はさらに身も蓋もないことに直面している。それは「サードプレイスそのもの」の必要性だ。

ここ最近考えている現代の虚無——それは日常に癒やしを求めることの無意味に直面し、異世界への転生を夢想するような——を生きる人間にとって、サードプレイスは意味をなさない。なぜならサードプレイスが与える「癒やし」はその人の「癒やし」になり得ないからだ。

今日は起業を志し、人脈を必要とする学生と熱心にディスカッションをしたのだが、彼らの問題はコロナによって大学の二年間の交友関係が断ち切られたことだ。彼らは人を欲するが、人に出会えなかった。そしてコロナの分断は学生だけではなく社会全体を覆っている。人と会う機会を断ち切られ、ベタベタした日常はオンラインによる「目的化された接続」に変更した。そのさなかにあってサードプレイスは意味を喪失する。

僕らのプロジェクトは、交流が目的づけられる中での能力主義への反抗だ。

フランス語の力、フランス文化の知識はスキルである。知識伝達を目的化すると、それはシラバスのように能力主義を肯定することとなる。だからこそ、フランス語の知識をスキルから切り離す。その矛盾とも言える試みにこそ状況を打開する可能性が潜む。

能力の意味を変化させること。

能力の発揮できる状況は限られている。具体的な能力は狭い目的に関連付けられる。それはたとえばフランス語が通じる人に何かを伝えるように。だがこの交流に役立つスキルを、有効性から切り離し、別の話題や文化に接続する——まるでフランス語の音や造形を楽しむように。僕らはsignifié(意味されるもの)をスピーディに、明確に理解することを意識しすぎていた。だからこそ、まずsiginifiant(意味するもの)それ自体、すなわち言葉の次元にとどまる。言葉が何の役に立つかを考えず、単位のことも考えず、ただ言葉そのものと相対する。

目的づけられる行為ではなく、行為そのもの——評価をせず、結果を期待せず、ただ行為の瞬間に目を向ける。山頂のみを意識するのではなく、歩いていることそれ自体を楽しむように。そのような目的から切り離された行為そのものに向ける視点こそが、社会に蔓延る虚無を脱却するヒントになるのではないかと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?