認知の歪みがもたらす友と敵

子供が気まぐれに『ドラゴンボール』を見たいというので、サブスクリプションで第一話から視聴している。

初期は子供の悟空がドラゴンボールを集める冒険物語で、バトル漫画の要素は薄い。懐かしく視聴していたが、途中で違和感に気づいた。

作中において悟空は汚れを知らない無邪気な存在として位置づけられており、心が汚れた人間は乗ることができない筋斗雲を普通に乗りこなす。しかし時を置いてこの作品を見ると、幼少期の悟空が「よい子」に見えないのだ。

自分と死んだ祖父(孫悟飯)以外の人間を知らない悟空は、都会から自動車でやってきたブルマを妖怪だと勘違いして襲いかかる。その他、悟空は自分が「敵」と認識した存在には容赦がない。作品の初期ゆえか、「敵を殺さない(魔人ブウ戦でベジータが指摘する『負けない』ための戦い)」思想は出てこず、敵は容赦なく殺される。何よりも際立つのは、自分の理解が及ばぬものはすべからく敵として攻撃しようとする態度だ。

初期の悟空の中で敵と味方ははっきりと線引きなされており、敵はあっさりと排除される。そこに思想的な嫌らしさがないために、悟空は「よい子」とされ、周囲も悟空の心を「清らか」とみなす。だが見方を変えると、この作品に描かれるのは邪気のない暴力性である。そして悟空を好ましく思うキャラクターは極めて限定的だ。自分の周囲に「邪気のない暴力」があり、理解不能なもの、あるいは敵と見做したものを排除するのであれば、関係構築は困難である。

子供に付き合ってアニメを見ながら、呉勝浩『爆弾』を読了した。

元ホームレスでコミュニティを持たず、社会の誰からも相手にされないスズキタゴサクは、微罪で警察に捕まり、署内で取り調べを受ける。スズキがのらりくらりと意味不明なことを語るうちに、都内では爆破事件が相次ぐ。スズキは爆破を予言し、事件への関与を仄めかすが、全容はまるで掴めず、警察とスズキの心理戦が始まっていく。

作品の帯には「敵は、たった一人の“無敵の人"」と書かれている。社会との接続を拒否され、社会から遊離するスズキは、警察組織に代表される良識者のコミュニティを嘲笑う。スズキにとって重要なのは、それまで無視されていた自分が注目され、他者の憎しみのベクトルを向けられることだ。社会から逸脱した個人が、社会全体を「敵」と位置づけ、破壊を繰り返していく。

「敵」とみなしたものを破壊する点で、スズキと悟空は呼応関係に置かれる。では悟空の振りかざす無邪気な暴力と、スズキに代表される「無敵の人」の暴力の本質的な差異はどこにあるのか。おそらくスズキは「敵」と見做される社会の「普遍性」を深く理解し、その上で攻撃を開始する。社会の逸脱者である自覚に基づき社会秩序も破壊へと向かうとすれば、スズキは筋斗雲に乗ることができない。認知の歪みによる破壊衝動は、無邪気さに基づく敵の破壊と質的に異なっている。そして「無敵の人」の認知が内奥に眠る人間性の証明だとすれば、少なくとも我々にはまだできることが残されているだろう。

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