季節を動詞化する

昨年の9月に俳句を始め、一日一句を詠んでいるため、これまで200句ほど作句した。数にすると改めて新人っぷりがわかる。

息子が2歳の頃、子供用の図鑑のヒトデを指さして「きらきらひかる」と歌い出した。息子にはヒトデが星に見え、当時歌っていた「きらきら星」を思い出したのだろう。プレバトを見始めた頃だったので、この「かわいらしいエピソード」を俳句にしようと思い、いろいろ工夫するも、まったくうまくいかなかった。それから三年経過した今年の夏にふと「吾子が手の海星きらきら星の夏」というフレーズが頭に浮かび、「これは才能アリかも」などと思ったのだ。直後に夏井いつき先生の本を買い、一日一句のペースで作句を続けてきた。

「吾子が手の海星きらきら星の夏」が「才能アリ」であるわけがない(笑)おそらく読み手にも「子供がヒトデを持ちながらきらきら星を歌っている」という情景は伝わるだろう。だが「きらきら星の夏」とはどんな夏だ?ここでは「夏」という季語が取って付けただけにとどまっており、季節の詩情が詠み込まれていない。まあ、思い出の句になったことは事実だが。

Instagramにアップしている最近の句も初心者の作品だが、季節に対峙しようという気持ちは維持している。

では最初の句の何が問題なのか。簡単な話で、ここで主役になっているのは「子供がヒトデを指しながらきらきら星を歌った」というかわいらしいエピソードである。つまり最初から「季節」を題材としていないのだ。ベテランであればこのようなエピソードを題材に名句を作るのかもしれないが、僕には今もって修正案が思い浮かばない。逆に言うとこれを修正できるようになればワンランク上に行くことができるかもしれない。

さて。

昨日は近大生の文化系サークルに参加し、学生と久しぶりに文化についてディスカッションをした。このときに念頭に置いたのは「日本文化とは何か?」という問いである。この茫漠とした質問を、あえて何の前提も設けずに学生にぶつけることがある。返ってくる答えはだいたい「着物」「和食」といったものだ。前提がない問いなので、当然ながら正解と見なされるわけだが、このような答えが集中するところに「日本文化」の固定的なイメージが見出される。

議論の一つとなったのは「国宝的な仏像を前にしたときの価値判断」である。修学旅行などでは高名な寺を集団で訪れ、仏像を鑑賞する。その際にその寺やその仏像が鑑賞の対象として選ばれた理由は何か?そこでは少なからず「文化的価値」が基準となる。ではその「価値」はどのように確立されたのか?——以上のような問いかけから、自分が「なぜその文化をありがたがるのか」を考えていった。

そこで僕らが直面したのは「ありがたいとされるものだからありがたい」という偶像崇拝的な感覚だ。価値があると「言われている」、日本的だと「言われている」ことが自分の価値の基準にすり替わる瞬間がある。むろん「価値があると言われるもの」を鑑賞することが無価値であるわけではないし、先人の手引きは優れた鑑賞の道筋であることは疑いようもない。だが自発的な印象や解釈が往々にして他者の解釈と入れ替わってしまうことにも注意が必要だ。

「価値あるとされるコト」「日本的だとされるコト」——「コト」が先んじることで、「モノ」の解釈は「コト」の枠に囚われる危険性がある。「日本的なコト」を基準として世界を眺めたとき、目の前の「モノ」は自由な解釈を阻まれ、「日本的ではないモノ」として価値を削がれるかもしれない。それゆえに、試みに「モノ」に感覚を委ねてみる。「モノ」を「感じる」「触れる」「味わう」「楽しむ」こと、すなわち「モノ」と「動詞」を結ぶことで、僕らは既存の「コト」から飛躍することが可能となるのではないのか。

ディスカッションを経て、学生たちと改めて「日本文化とは何か」と考えてみた。僕の脳裏に浮かんだものは「歳時記」である。そう、つまり季語だ。

「きらきら星の夏」——ここでの「夏」は単に俳句の規則を守るための季語である。言い換えると「季語を入れるコト」に従属した判断だ。僕は「夏」に触れておらず、感じることができていない。季語との関係は季節と動詞の関係にある。「歳時記」は名詞を満載したルールブックではなく、先人たちが季節と動詞を結んだ記録だ。今目の前にある季節は、自分から発生する動詞と結びつき、それはさらに「歳時記」に織り込まれた先人たちの動詞と重なり合う。

蟇ないて唐招提寺春いづこ(水原秋櫻子)

季節と動詞の輪の中で、唐招提寺の美しさをじっくりと味わってみる。

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