構造の中に危うさを潜ませる

年末年始の休暇というのは保育所の休みに伴って「家庭にすべてを捧げ尽くす時」となる。早々に「机について研究すること」を諦めねばならないのだが、およそ研究者という生き物は「五感で何かを捉えれば研究が始まる」ものでもある。開き直って子供を抱きながらAmazonプライムビデオやNetflixでエンタメ作品を見ていると、新たな着想が浮かぶ。

たとえば気晴らしでアニメを見る。ファンタジーやSFの世界を気楽に堪能するが、その作品に引き込まれ、視聴の後では自身の世界観が変化する。気晴らしの中に次の研究に発展するテーマを発見し、かくして年末の家族サービスは次なる考察へと接続される。

ファンタジー、SF、ミステリといったジャンルは「構造」と切り離せない。「近未来のディストピアでロボットが敵と戦う」という構造や、「吹雪の山荘で旅行客が殺され、探偵役が犯人を見つける」という構造が考えられる。その特徴的な構造がエンタメを印づけている。たとえばジェットコースターは「曲がりくねったレールを猛スピードで走る」ものであり、その構造がエンタメとして認識される。

ではエンタメの文学性はどこに宿るか。先のジェットコースターの比喩に従うと、「曲がりくねったレールを猛スピードで走る」構造の中に、「美しい景色」のような付加価値を見出すことができる。小説で言えば、特定の構造を持ち、読者の感情を動かす物語の中で、たとえばセリフや描写の中に特定のテーマが入り込む場合がある。我々は揺れ動く感情の中で、それらの文学性に躓き、危ういテーマとの突然の出会いが既存の価値観を崩していく。

研究にせよ、教育にせよ、我々はまず「構造」を与えられる。そして特定の構造からの逸脱は、年々大きな批判の対象となっていく。90分の講義を雑談で終えること、遅く初めて早く終わることなどは「論外」とされ、教授法はアクティブラーニングと結びつけられ、「遊び」の要素が減少する。その「構造」の洗練はむろん特定の効果を生むのだろうが、時に猛烈な息苦しさを感じる。では「構造」に従属される中で我々は何をすればいいのか。そのときに、2時間のアニメーションの枠組みで興行成績を迫られるエンターテインメントの厳しい「構造」の中に文学性を潜ませる作家たちの仕事に励まされるのだ。

我々は「構造」の中に何を潜ませればよいか。構造の「縛り」は「逸脱の可能性」と表裏一体だ。「構造」に何を溶け込ませ、どのような「躓き」を演出するか……そのような不必要な目論見こそが、教育が構造上の「目的」を超えて何かを創造するための手段となるのではないか。

というわけで来年は今よりもっと意味わかんない授業と研究やりますんでお付き合いください。

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