不可視の事象に名前をつけるように

空いた時間に話題となっていた作品を読了した。

地下アイドルの経験を持つ文筆家による随筆集である。

「永遠なるもの」は著者によって「欠けたもの」「無くなったもの」と定義づけられる。あるいは自分が存在していない店、自分と関係のないコミュニティによって賑わいを持つ空間などが挙げられる。

言うまでもなく「永遠」は古典以来の文学的主題だ。僕などは昨年も近代フランス文学における「永遠」の主題について学会発表を試みた。だが通常「永遠」は「存在」を前提とするだろう。欠けない、無くならない、ずっとあり続けるものが「永遠」とされるのであり、マルセル・プルーストにおいては「自身の感じた印象」を主題とする芸術作品こそが自分の永続化を可能とする。言い換えると「欠落」は「永遠」の対極に置かれるのである。

しかし「欠落」を仮に「存在」と捉えたらどうなるか。村上春樹が「ドーナツの穴を欠如と捉えるか、存在と捉えるか」といったことを書いていた気がするが(正確な文言ではないと思うが、遠からぬ表現。ちなみに「ドーナツの味は変わらない」と続く)「無い」という現象が「在る」とする場合、「無い」は永遠に続く。

この作品では、「無い」ことの重要性はむろんのこと、「在る」ことの空虚さが指摘される。僕らが何らかの行動を取り、他者の何らかの振る舞いを見る場合、そこに「在る」ものは個人の表層を強調し、しばしば過剰なまでに「存在感」を押しつける。だからこそ「在る」ものを遮蔽することが意味を持つ。行動を際立たせることなく、華美な存在を主張することなく、人間が人間としてそこに「在る」ことを実感する——自分の意識の外にあるものが実は重要な意味を持っていることが、断章の中で一つずつ文字化されるのが本作の特徴だろう。

文学は言語化されぬものの言語化を目指す撞着を孕んだものである。本作が試みたのは「行動」が尊ばれ、目に見えるものの価値付けに追われる社会にあって不可視のまま通り過ぎるものに一つずつ名前を付ける行為であるように思える。

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