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選び取り、捨てるだけのこと

「趣味」という言葉に違和感を持っている。便宜的に「趣味」という言葉を使うこともあるが、「無駄なこと」「遊び」「贅沢」をしている気持ちは希薄である。

世の中には様々なものが溢れている。その中から自分の進む道を選び、没頭する。ただそれだけを繰り返している。

没頭したものが文学研究であったため、若い頃には「不要なことに金を使っている」などと言われたものだ。ただし僕にとっては「生きること」と同義である。別に「文学=人生」とプルーストをなぞっているわけではなく、その「没頭」無くしては自分の人生が成立しないというだけだ。

朝に5㎞以上を走ることも、それをしなければ前に進めない自分がいるからに他ならない。急に蕎麦を打ち始めたが、「学び」になぞらえて真剣に打ち込んでいる。

学生時代はアコースティックギターを抱えてライブハウスを転々とし、市民活動に身を投じ、ノンフィクションの本を書き上げた。僕は「好きだからやる」という言葉を警戒している。たまたま没頭する「縁」があり、没頭した結果「好き」になる。結果的に「好き」になったものが他者から見て「無駄」か否かは大きな問題ではない。

人から見れば「無駄」に見えるような院生生活で負債を抱え、その中で震災に見舞われ、時給バイトをしながら妻子と暮らしてきた。ただ、目の前には研究・教育への「没頭」があった。バイトをしているときはバイトに没頭したし、電車が動かないあいだの自転車通勤を通じて自転車に没頭していった。中学生相手の塾での理数系教科の担当が科学アレルギー克服の要因となり、高校生相手の国語担当が比較文学のきっかけとなり、自転車は後のランニングに耐える足腰を作ってくれた。

「没頭」を選び取れば、他を「捨てる」ことになる。選ぶことと捨てることは同義だ。何かに時間を費やすと、当然その時間は消える。モノやコトを選択すれば、対価となる金銭を捨てることとなる。誰かとの付き合いの選択は、他の人との関係を捨てることに繋がる。

緊急事態宣言以降の生活は様変わりしたが、個人的に問題はごくシンプルである。さまざまな変化の結果、目の前に現れたものにどのように「没頭」するかということに過ぎない。

保育園が止まり、息子の送り迎えに時間を要することがなくなった。朝の空き時間を前にして、「走る」という没頭の対象が意味を帯びてくる。だから、朝はまず走る。

オンライン授業のため、動画作成の必要性が生じた。まずは作ることに没頭する。好きか嫌いか、得意か不得意かは大した問題ではない。間違いなく、やっているうちに面白くなる。「Explain Edu」という語彙は2週間前の僕の頭の中に存在しなかったが、たまたま没頭して、少しずつYouTubeが増えて行っている。

オーディオを手放す人がいたので、縁があれば突進する。もらいものでセットを組めそうだったので、躍起になって繋げてみたら、なかなか立派なオーディオができた。「プリメインアンプ」「ターンテーブル」といった語彙が自然に習得されていく。

ただ、目の前のことに没頭する。その結果、目の前の「可処分時間」はどんどん消えてゆく。ある人は「可処分時間」をゲームに使い、ある人は勉強に使い、ある人は感情を高ぶらせるために使う。むろん、そこに優劣などはない。ただ「選択」の差があるだけだ。僕は自分の「没頭」のため、他の選択肢を捨てただけである。緊急事態宣言の中にあっても、身体が奪われたわけではない。身体が存在するならば、あとはとても容易い。

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