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「強い言葉」が吹き荒れる中で

SDJF(日本フランス語教育学会)の会費をあり得ないほど滞納し、本日ついに全額を収めた。妻に「かなりの額でごめん」と言ったら、「きちんと払わないと信用に関わるでしょ」と言われた。偉そうに生きているが、自分はこの程度の人間である。つねに謙虚であろう。

自分は相変わらずしょうもない。他方で「強い言葉」が気になって仕方ない。「〜べきだ」「〜しろ」という語尾とともに発せられる言葉、有無を言わせぬ批判、追及と責めの言葉の氾濫、シェアされる感情的なポスト——ここ数日でTLは「強い言葉」で埋め尽くされた。昨日、ついに我慢の限界がきたようで、Twitterを一時的にアンインストールした。Facebookも似たようなものだが。

しょうもない人間である自分の「感情」「心象」など当てになるはずもない。内面の吐露を拡散することに意味を見出せず、相変わらず街の風景を眺め、写生よろしく俳句に勤しむ。七月に予定される日本国際文化学会がどのようになるか不明だが、堀辰雄とプルーストを読み、考察を練り上げていく。自分の前に横たわる「事実」に対峙し、そこからロジックを積み上げていくことしかできはしない。「自粛」と「反自粛」に二極化するTLから目をそらし、ロジックに基づいて「生活」を送るだけだ。ジョギングし、勉強をし、仕事をし、育児をする。ときどきギターを弾き、読書をする。それが「自粛」か「反自粛」かは他人が決めればよい。お気に入りのフレンチの写真をヘッドに貼る程度には外食をしている。

変わらぬ「生活」の中で素晴らしい本に出会った。

宮城県在住の小野和子氏による民話集——こんな説明もまだ「強い言葉」によるカテゴライズかもしれない。ここに収められているのは、ある時代に東北を生きた人々の「物語」である。本書は民話という物語の記録だけにとどまらず、民話を紡ぐ人々の人生にも光が当てられる。ある人生が「物語」と結びつき、民話から歴史が表出する。

小野氏が「採訪」した物語には、人を束ねて縛りつけるような「強さ」が感じられない。感情の一方的な吐露も、他者を動因しようとする強迫性もない。飾りのない方言で語られる民話が、自分の内面に溶け込み、確かな「光」を発していく。

震災を越え、ウイルスに翻弄される日々の中で、「強い言葉」を発すること、あるいは「強い言葉」を発するリーダーを求めること、政府の対応の遅さに不満の声を上げ、実際の決定を強権と批判すること……TLはそのような内面を可視化する。そのような言説があるいは精神の安定につながり、政府批判が社会を救うことに繋がるのやもしれぬので、ここでその是非を問うつもりはない。ただ、僕は「強い言葉」の暴走にウイルス以上の恐怖をはっきりと感じる。だからこそ「弱い言葉」で紡がれる物語に目を向けたい。その物語は「自粛」や「反自粛」といった言葉では言い表せない自分の「生活」にしっかりと結びついている。

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